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句集「外交官・松岡洋右の俳句」

句集「外交官・松岡洋右の俳句」 松岡満寿男さんが発行 「戦争抑止、アジア団結に奔走」
 光市室積出身で戦前の第2次近衛文麿内閣で外務大臣を務め、日本の国際連盟脱退や日独伊三国同盟、日ソ不可侵条約の締結など重要な局面を担った松岡洋右(1880~1946)の句集「外交官・松岡洋右の俳句」が、洋右のおいの長男にあたる元衆院議員の松岡満寿男さん(82)=室積=によって出版された。(山上達也)

句集を持つ松岡満寿男さん

句集を持つ松岡満寿男さん

 この句集は満寿男さんが理事長だった旧満鉄(南満州鉄道)社員や満州引き揚げ者の扶助組織、満鉄会が今年三月に解散した際、国立国会図書館に寄贈した資料の中にあった雑誌「公論」に洋右の句160首を見つけたことから。日記代わりになっている俳句に「戦争抑止、アジア団結への必死の奔走が読み取れる」と出版を決めた。
 洋右は室積の回船問屋の四男として生まれ、実家の没落を機に13歳で渡米し、苦学しながら篤志家の援助でオレゴン州立大学を卒業。外務省に入省して外交官として17年勤務し、41歳で退官して衆議院議員に山口2区から2回当選。満鉄総裁を経て外相になった。
 しかし軍部のフランス領インドシナ進駐に反対したため近衛内閣から追放され、結核も悪化、戦後、A級戦犯に問われた極東軍事裁判(東京裁判)の開廷から間もない1946年6月に66歳で死去した。
 満寿男さんは34年満州生まれ。戦後は苦労して引き揚げて室積で小、中、高校時代を過ごし、早稲田大学政経学部を卒業。光市長だった父の三雄氏の死去を受けて71年、新日鉄を退職して36歳で市長になり、3期務めた。
 その後国政に転じ、自民党や日本新党、新進党から参院議員2期、衆院議員1期。細川護熙内閣では日本新党代表幹事として与党8党のまとめ役となった。
松岡洋右

松岡洋右

 洋右の句は日独伊三国同盟成立後の41年3月21日から4月22日まで外相として満州からシベリアを経てモスクワ、ベルリン、ローマを外遊した際に詠んだもの。
 たまたま満寿男さんの句が掲載された俳句誌を見た衆議院前議員俳句会の会長で元衆院議長の田村元さんが満寿男さんを句会に誘って「君は松岡洋右の一族なのだから洋右の句集を出してはどうか」と勧められた。ちょうど洋右の句が「公論」から発見された時でもあり「公論」の句を中心に洋右の句集を出版することになった。
 3月には東京国際大学の福井雄三教授の「松岡外交が実現していれば日米開戦はなかった」とする「よみがえる松岡洋右」(PHP研究所)が出版されるなど、近年、国内外で洋右の研究、再評価が始まっている。
 福井教授は国家の崩壊と運命をともにした人物であるだけに負のイメージが強い洋右について、東京裁判の直後に亡くなったため自己の立場を陳述する機会がなく「死人に口なし」で「すべての罪を松岡へ」という暗黙の合言葉がA級戦犯たちにあったことを近衛文麿の「近衛手記」などから紹介している。
 満寿男さんは「この国の復興に尽くした政治家たちの五七五は現在の我々が忘れている何かを示唆してくれるのではないか」と句集の出版を急いだという。
 句集は2部構成で、第1部は「大空に道なき道をみつけけり」「欧亜しきるウラルこゆるや雪の中」「両雄の握手せし地や雪深し」など公論の145句▽第2部は41年7月以降の22句で「さみだれや針一本の命かな」「悔いもなく怨もなくて行く黄泉(よみじ)」などの句があり、各所にモスクワ再訪、日ソ中立条約成る、大連より飛ぶ、皇都帰着などと入って歴史をともに歩いているような編集となっている。
 満寿男さんは「洋右も外交で苦労した。国の栄枯盛衰は外交一つにかかっている。今の政治家も先人の句集から何かを学んでほしい」と話している。
 1,800円(税別)で、東京四季出版からネット販売されている。