一言進言

あれから10年!頑張れているか私たち

~日常で薄れる記憶~

「あーーっ」テレビ画面から流れる悲痛な叫び声と、妙にゆっくり感じる家や車が流されている映像は、未だに記憶が鮮明に残っている。あの日、珍しく周南市議会の記者席で、これまた初めての経験の百条委員会を傍聴していた。記者席がどよめき始め、東北で大変なことが起こっていると知った。あわてて車に戻り車中の小さなテレビを見た。どれくらい見ていたか記憶にないが、大変長く夢中で見ていた。

それから1カ月は毎朝、新聞をむさぼるように読み、夜はテレビの前から動けなかった。それはまだ記憶に強く残っていた17年前の阪神・淡路大震災の光景と比較する必要もないが、強烈さは異常としか言いようがなかった。震災から数日後たまたま徳山商工会議所で議員総会が開かれ、すぐに現地へ救援物資を届けようと決議された。当時の会頭は徳山海陸運送社長の藤井英雄さんだった。さっそくその徳山海陸の大きな倉庫を開放し、あっという間に倉庫いっぱいの救援物資が集まった。

救援物資を満載したトラックが出発したのが3月19日だった。被災から1週間余りで準備完了した。運転は現会頭の宮本治郎さんと現副会頭の原田康宏さんだった。現地ではガソリンもないだろうと山田石油の協力でタンクローリーも一緒だった。2人は一昼夜寝ずに運転を続け、寸断された道、がれきの山の中、翌日の夜に福島県の会津若松商工会議所にたどり着いた。もちろんタンクローリーの運転していた人も大変危険な思いをしていただろう。

戊辰戦争以来、宿敵と言われたこともあった長州から、いち早く救援物資が届けられて、会津の人たちは心から喜んでいたとの報告を聞いて、歴史を乗り越える多少の手助けができたのかと思ったことを思い出す。

あれから10年。日本中が悲しみに沈み、思いを寄せた東日本大震災だが、次々起こる各地での災害や、事件で日常の中から忘れないまでも、記憶の片隅になりかけている。災害も少ない、穏やかな瀬戸内の一角で生活している私たちは、もう少し踏ん張って良い地域にすることが、東北をはじめ災害をこうむった人たちへの応援歌になるのではないか。気持ちを新たにする3月だ。 

(中島