一言進言

大学に関心を持つことは大切だ

~公立化は改革の一手段~

全国に大学は600校を超える。文科省も10年後には半数になると見込んでいるし、実際減らそうと目論んでいる。まさに生き残りをかけた競合の真最中だ。中央の有名私立大学でもあの手この手と対策を講じる時代になった。高校生が激減する18年問題に直面する危機感から、全国の地方大学は生き残るための取り組みを始めていた。その中で徳山大学は旧態以前のままで、このままでは地域にとっても有益な大学になり得ないと、私たちは大学側に提言をしてきた。半ばあきらめかけていたところで理事長、学長が変わり、一気に改革に向けての取り組みが始まった。

同大学に対しては社会福祉士などの資格を取得する学生が少ないなど以前から指摘し、提案もしてきた。教授陣にやる気はあるのかと疑問も投げかけてきた。高田隆学長は早速全国から教員の公募も始め、来年度には優秀な先生も多数採用予定だ。大学の先生は法律上勝手にクビにできない。改革は時間と手間がかかる厄介なものだ。教授陣にやる気を起こさせるのは並大抵ではない。

公立化については、反対意見の多くは「こんなコロナ禍の中、なぜ急ぐのか」と疑問の声を上げている。気持ちはわかるが地方の衰退はコロナだからといって止まらない。地方大学間の競争は実にし烈を極めている。来春開学でも最初の新学部の卒業生は6年後だ。いわば結果が見えるのは随分時間がかかる。ただし、市民の声を聞いていないと言う主張はその通りだ。有識者会議では商工会議所などは参加しているが、一般市民には無縁の世界だった。

地方大学はかくあるべきと言える一般市民は多くはない。大学にほとんど関心を持ってこなかったのではないか。そこで今回の署名活動は、市民に大学の在り方を考えさせる良いきっかけになっている。仕方ないが、中には藤井市長への反感から公立化に反対する人も少なからずいる。それでも徳山大学をどう変革させれば良い大学になるか考えてくれたら大いに結構だ。市民との交流も去年から飛躍的に増えたが、市民からの提案を受け入れる仕組みつくりも急がれる。

山口県東部の唯一の4年制大学だ。県民が頼りにできる大学になって欲しいと思っているが、今回の署名活動の中でネット上「あんな大学に税金を使うのはもったいない」の書き込みを見ると悲しくなる。だから良い大学にするための改革なのに、公立化は目的ではない、より早く良い大学にするための手段の一つだ。行政も市議会も改革の中身について議論することが少なかった。地域のシンクタンクになった徳山大学を夢見て、これからも物申す。

(中島 

原爆投下に文句言えないのは何故?

~戦争の責任者は誰だったのか?~

私は戦後生まれで戦争体験はない。しかし8月は6日、9日、15日とほとんどのメディアが悲惨な戦争を想像させる季節になり、幼かった私でも、ほんの少しだが残骸の一部を呼び覚ます機会になる。おぼろげな記憶でも今の世の中では想像しえない光景が見えた。

祖父は被爆者だった。両親と疎遠だったのか会った記憶が薄いが、残っているのは被爆者たちが寄り添って生きていたバラック建ての家だけだ。確か周りもみな同じような板を窓代わりにしたバラックだった。しばらくして訪ねたときは3、4階建ての市営住宅だった。既に祖父はこの世にいなかった。両親から祖父の話は聞くことがほとんどなかった。

私の継母は看護師だった。呉の空襲時に街中で被災者の救護にあたっていたそうだ。呉の空襲も激しかったようで、周囲が燃え盛る中、おびただしい遺体がそこら中に転がっていたが、まだ息をしている人の救済に走り回った経験を語ってくれた。印象的だったのは道路までが焼けて、はいていた運動靴が熱でドロドロに溶けていたそうだ。

確かな自分自身の記憶は、中学校時代、同じクラスの友達が白血病で亡くなったことだ。市内の寺院での葬儀に参列したが、棺を抱きしめ「私が殺してしまった」お母さんの悲痛な泣き声は未だに耳に残っている。お母さんは被爆者だった。彼が被爆二世だと意識したのは高校を卒業するころだった。

一体誰が、何のためにあのひどい戦争を始め、誰が、何のためにあれほど悲惨な結末まで続けたのか。高校生になって多少本を読み始めて流れがわかってきた。わかればわかるほど、何百万人もの尊い命を奪った責任者は誰なのか、結局うやむやで終わったあの大戦は疑問しか残らなかった。日本の歴史であれほどの大事をしたのに、誰一人責任を取らなかったことに唖然とするだけだ。腹を切ったり自害した指導者もいたが、東条英機などはおめおめ敵国米国に捕まった。

日本の誇る武士道を語って、兵士たちを突撃させた指導者が生き残ったのはどうしても理解できなかった。自害するつもりならどうとでもなっただろうに。責任者が誰か追及しないままこの国は戦争に負けた。天皇陛下も参拝に訪れることができない靖国神社の問題も未だに解決できない。あの戦争は全て敵国米国が悪かったのか。原爆投下に文句が言えない国家に誰がしたのだろうか。戦後76年の夏は終わった。

(中島 

櫛ケ浜駅に坪700万円の建設費

~大豪邸並みのトイレか~

周南市徳山駅前図書館と周辺工事で約50億円、南北自由通路で55億円、市役所の新庁舎建設で約110億円、ここ数年で周南市は街中に大きな投資をした。これで市民生活などはどう変化したか、それぞれの立場で見方も、感じ方も違うだろう。効果を言う人は一番に駅前図書館へ何百万人もの人が訪れ、街中への賑わいが現れたと。疑問視する人は、結局人は集まったが、実際の経済効果はほとんど無かったと。結論的には建物はもうできてしまって、今更解体もできるわけでなし、建設のよしあしを論議することが無益なことは間違いない。

一つ言えるのは、膨大な建設費は、そのほとんどを大手ゼネコンが受注したもので、地元の建設関連業者への波及は極めて限定的だったことだ。工事を請け負った広成建設や五洋建設は、工事しただけで、地域の商工会議所活動に参加するわけでもなく、さっさと工事が終わればおさらばする企業だ。広成建設は完全なJRの子会社で、駅前図書館などは駅に近いと言うだけで独占的に請け負った。確か計画時、駅からもう1メートル離していれば自由競争で、もっと安く建設できると主張する人もいた。

今回、長年の市民の願いだった櫛ケ浜駅のトイレがリニューアルすることになった。信じられないが多くの人が利用する駅のトイレが今までポッチャン式トイレだったことだ。いくらJRに頼んでも無視されてきたトイレだが、ようやく周南市が負担するからと改装することになった。蓋を開けると、入札に参加したのは広成建設1社だけ。最初からの出来レースだったのか、わずか9坪に満たないトイレが6,400万円だった。素人でもこれだけ出せば大豪邸が建つと想像できる。

一体JRと市はどんな打ち合わせをしてきたのか。ちなみに3月完成した新南陽駅は8,800万円だった。面白いのは岩徳線の周防花岡駅は1千万円足らず、周防久保駅は837万円だった。この二つは地元の業者が施工した。さすがに田舎の駅にはJRも興味を示さなかったのか。なぜこんな高額の予定価格になるのか、なぜどこも広成建設1社落札になるのか、なぜ地元の業者は入札に参加しなかったのか。本来駅のトイレはJRが建て替えるべきではないのか。

なぜ地方自治体が大金を投じないと駅のトイレがきれいにならないのか。鉄道の運行に何の支障もないはずのトイレをきれいにするのに、JRの横暴さは驚くより怒りさえ感じるのは私一人か。周南市も実態を明らかにするべきだ。貴重な市民の税金を使っているのだから。何を怖がっているのだろうか。御殿のようなお金をかけたトイレは楽しみだ。

(中島 

若者定住は絶大な効果

~徳山大学公立化に一言~

地方の課題は、若者定住と少子化対策が最重要課題だと断言できる。高齢者福祉も大事だが、地域が元気になるには若者が増えることが一番の大切な要素だ。言葉遊び的な「幸せを感じる地域」「助け合える地域」など悠長なことでは衰退しかない。5、6年前から周南市の企画課、徳山商工会議所に声をかけ、徳山大学の改革案を持ち込み、非公式だが当時の学長などと議論を交わしてきた。一番は同大に地元から進学する学生があまりにも少なかったからだ。卒業生の多くは他県からが圧倒的で、地域の企業に就職してもほとんどが離職、地元に帰っていたのが実情だった。
議論がかみ合わず、半ばあきらめかけてた時、理事長が変わり、学長も変えた。リーダーが変わるとこうも変わるものかと思った。内部体制も一気に変えて行き、外部から人を求め、責任を明らかにし、職員への指導も強化していった。その時期と同じくして藤井市長が当選し、公立化に向けて急速に動き出した。私たちは学生の質の向上を強く訴えていたが、人数合わせの学生採用を止め、全国から優秀な講師陣を集め、定数にこだわらない取り組みも始まった。
ある統計資料によると、一人若者が定住すると生涯で5千万円以上の税金が地方自治体に入る。所得税はもちろん消費税、ガソリン税など、多くの税金を払う。家でも建てれば固定資産税も生涯払う。若者定住に1人200万円、300万円使っても充分元が取れる計算だ。人手不足で悩む地元企業にとっては切実な問題だ。地域経済への効果も計り知れない。
山口県から他県への大学進学者は60%に及ぶ。就職者はもっとその比率が増える。かくして山口県の若者の流出は止まることを知らない。若者定住に無策が続いた山口県は衰退の一途を歩んできた。ハローワークの情報では、毎年5千人の若者が県外に出ているとのことだ。地元の若者が地元の大学に進学、そして親元か、その近くに住む。もう少しそんな若者が増えればと願うばかりだ。
徳山大学へ提言したころ、当時県議だった藤井律子市長と、当時県教育委員長だった山県俊郎氏と共に県教委を訪ね、高校現場でもう少し県内の大学進学をと指導できないかと頼みに何度も足を運んだ。答えは「山口県は昔から上(かみ)に上(あが)り出世しようとする教育が主流で、現場の教師の意識を変えるのは難しい」とのことだった。しかし徐々に流れも変わってきた。藤井市長の公立化への思いはそのあたりが原点だったのかも知れない。

(中島