一言進言

新市長の新副市長に期待

~もう失政は許されない~
選挙による市長交代劇はそんなにない。下松市の河村憐次市長は、合併慎重派の井川成正前市長に敗れた。周南市は島津幸男元市長に続いて木村健一郎前市長が現職で敗れた。ここのところ多すぎる。河村氏は82歳の出馬で無理があった。当時1歳年上の県議から、あんたはまだ俺より若いから出馬を、と促されての立候補との逸話も残った。一方破った井川氏は、最後は86歳で日本最年長の市長になった。
島津氏は決断も早く、何か変革をしてくれると期待はされたが、百条委員会が設置されるなど疑惑が付きまとい失脚した。木村氏は真面目で、実直さが際立って1期目は安定感も見せたが、2期目後半から度々議会で陳謝する場面が見られ、信頼を失って行った。「しゅうニャン市」騒動は、議会では僅差で通過するなど強引な姿勢が目立ち、反発する市民も増えた。丁寧な説明がおろそかになって、敗北に至った。
市長は一人ではすべてを掌握できない。副市長に誰を置くかが大きなポイントだ。合併以来、周南市は旧新南陽の職員が副市長を務めた。市長を守り、行政マンの頂点に立つ副市長の役割は大きい。時には体を張って市長の提案を止める勇気も必要だ。また、議会や、市民団体などと対外的な付き合いがうまくできないと、市政を潤滑に動かせない。小川市政を支えたのは、当時助役だった林保人氏だった。
林氏は、議会への根回し、行政の陰の部分の処理など、裏舞台を見事に仕切っていた。もう時効だが、競艇場がらみで全国版並みのネタが入った。林氏はわが社に来て、「書かんと言うまで帰らん」と座り込んでしまった。確かに公になると競艇場は閉鎖になるかも知れなかった。丸一日の座り込みに音を上げたのは私だった。再発防止を確約して帰ってもらった。
市長だけは選挙で選ばれる。市長の方針を形にして、実行するのは副市長はじめ事務方の仕事だ。木村市政ではここ2年間陳謝する場面が多かった。副市長とその仲間たちが中枢部を握っていたが、その失敗で陳謝することは普通あり得ない光景だ。反省の色も見えない副市長たちを放置してきた責任はもちろん市長にあるが、人事権を行使する難しさも露呈した。
周南市は副市長に県庁幹部を招くことになる。優秀な人物だそうだが、果たしてどんな采配を、気配りをしてくれるだろうか。周南市は1,400人近い職員を抱える大組織だ。職員が生き生きと働ける環境を作るセンターに副市長がいる。議会対策、市民との対話など市長を支えて、前に進む周南市の要になりうるか。注目の人事だ。もう失政は許されない。(中島

周南市に必要なものは何か?

~藤井新市長へどう対峙するか?~

選挙はどうしてもしこりが少々残る。議員選挙はそうでもないが、首長となるとそうはいかない。下松市でも河村憐次元市長と井川成正前市長の戦いは激しかった。議会でもそれは顕著に現れた。山田宏下松商工会議所会頭が、熱心な河村氏応援団だったから、当人より周りの人たちは難儀した。合併推進派の新人をダブルスコアで降ろした2期目以降は落ち着き、わだかまりもほぼなくなった。
旧新南陽市時代の市長選も激しかった。1期ごとに市長が変わる激しさで、市民も職員も大変だった。現職の側近になった職員の中には、市長交代で市長部局から遠くに異動した人も多かった。そんな中ひたすら市民のために頑張る職員もたくさんいた。私の知る限り、そうした職員は、退職後も地域のためにボランティア活動などを実践してきた。一方、誰が市長になっても無視できないよう、仲間が結集、一種の権益集団を作って、存在感を示した職員もいた。
地方自治の表も裏も見続けてきたが、首長次第で、行政マンたちの動きも随分変わる。黒神直久、高村坂彦、河野通重、小川亮市長時代に旧徳山市の基盤はできた。中心市街地の整備、競艇場、動物園、放送局、銀行、周南バイパス、周南団地、緑地公園、新幹線駅、文化会館、スポーツセンター、全域のコミュニティー組織、すさまじい仕事量だ。地域力を高める不可欠な事業ばかりだ。埋め立て事業もすごかった。
周南市合併から16年。4人目の市長になる。合併後遺症か安定しない市政が続く。市民の不満を吸収できないまま16年経過した。2人の現職市長が大差で負けるという不幸に見舞われた。一つ言えるのは、箱もの行政を市民は渇望していないことだけだ。南北自由通路も、駅ビルも、新庁舎も、市民が活躍できる箱モノではなかった。道の駅だけは市民参加の可能性が高まった。市民が欲しかったのは中心地での小ホールだった。
藤井新市長は、安定した県議のポストを捨てての就任になる。財政も大型箱もので底をつきそうだ。余程の知恵と、パワーを出さないと、またもや市民からのブーイングを受けかねない。木村派市議からの攻撃もしばらくは激しいだろう。木村市政を盲目的に支持してきた市議たちが、今度はどんな提案をするのか楽しみだ。1日も早く、前向きな議論になって欲しいが、今、周南市の最大の課題は何か、市民に向かっての発言を期待しよう。4人目の市長を迎えて、議員たちもそろそろ何が大切かわかってきたと信じたい。(中島進)

人口減少は最大の敗因?

~安定しない周南市を憂う~

激しい戦いが終わった。激戦と思われたが、意外に票差が大きかった。そして新たな権力者が誕生した。首長は最高権力者だ。その人のやり方一つで地域は大きく変わる。周南市になって4人目の市長誕生だ。目まぐるしい変化の16年だった。一体どうしてこんなことになったか、合併後の周南市は安定しない。
周辺部と中心部の感覚がうまくいってないのか。広域になって行政の配慮が薄いのか。首長の感覚が市民と乖離していたのか。とにかく行政と市民の間に溝があったのは間違いない。合併で最も危惧していた課題が大きく出てきた16年間だった。もっと周辺部への思いやりが大切だった。
それはお金を使うことではなかった。拠点を作れば市民は納得してくれると思っている節がある。立派な箱モノを作れば良しとする感覚が間違っている。結論的には日常的に市民と向き合う姿勢が大切なのだ。各地の役場が無くなり、総合支所となって職員数が激減した。それを何とかプラザなどを建設、市民はそれで満足していると思っているのだろうか。
豪華絢爛な新庁舎ができたと胸を張るが、周辺部の市民で新庁舎を訪れる人は極わずかだ。それより市長か市の幹部を囲んで愚痴を含めて、色々な話を年に1回でも聞いてもらいたいのだ。きめ細かい声の吸い上げが、何より市民と行政の間をつなぐものだ。今回の選挙は、言葉遊び的な公約より、行政をもっと身近に感じたい叫びのように聞こえた。
現職は強い、はずだ。あらゆる行事に顔を出せて、しかもありがたいと思われる存在だ。“毎日が選挙活動”を展開できる立場だ。それでこれだけの大敗をした原因は何か。木村市長を応援した人たちも不思議でしょうがない。1年で3回も陳謝したからか。「しゅうニャン市」にこだわったからか。私なりの情報から推察するに、「市長をやっていて楽しい」と言うその姿勢だ。
若者流出が一向に止まらなく、人口減少はとどまるところを知らない周南市民は不安なのだ。そんな中「市長は楽しい」では納得してもらえまい。水素ステーションなど様々な施策をしてきた。箱モノはかってない勢いで作ってきた。胸を張るところが違ったのではないか。人口減少は諸悪の根源だ。毎年1千人以上の人口が減っている。任期中に1万人近い人口が減った。
戦いは終わった。しこりは多少残るだろう。木村陣営にはリーダー的な人が多かった。気持ちの整理を早くつけて、適度な緊張感で共同作業ができればよい。安倍首相も女性活躍相まで作った。新市長に期待しよう。(中島進)

果たして市民はどんな選択をするのか

~市民目線の市長を~

県議選はやはり投票率が大きく下がった。18歳から参政権を与えた効果(?)も大きい。有権者が増えたが、若い人たちが投票に行かないから必然投票率は下がる。昨年成人式でアンケートを取ったら、周南市長の名前を言える成人は2割程度だった。
市長選が終わりに近づいた。果たしてどれだけの人が投票に行くのだろうか。最近は半数の人しか投票に出向かない。全国的な問題だが、投票に行かない人が圧倒的に増えた。政治が庶民から遠い存在になった。周南市でも毎回投票率が下がり、都会並みになってきた。
投票に行かない理由で多いのは「誰がなっても一緒」だ。国も民主党が政権を取った時は、これで大きく変わるかと思ったが、内紛が激しく自滅した。これで一気に1強政治になり、あきらめムードが蔓延した。ここ周南でも何人かが「どっちでも一緒」だと言う。もっとひどいのは「おんなが市長じゃね」と言う男性が多い。さすが保守王国山口県だ。
官製談合事件は関心もなく、選挙にさほど影響を与える感じもない。直接自分の生活に影響がない限り、市長選などどうでも良い感覚だ。若者が減り、子供が少なくなっても、日常生活に影響がないと思っている。毎年1千人以上の人がいなくなり、この八年間で1万人近い人口減だが、気にする人は極わずかだ。
兵庫県明石市の市長が暴言を吐いたと辞職したが、出直し選挙で大勝した。マスコミから叩かれたが、彼は確実に人口を増やし、若者を増やした。暴言も、仕事をちゃんとしない部下を叱責する中で出たと後で分かって、市民は市長を選んだ。市民のために仕事をもっと必死でしようと職員を叱ったのだ。市民は市民目線の市長を望んでいる。
木村市長は果たして市民目線で仕事をしてきたか。検証の機会だ。藤井候補は本当に市民目線で仕事をしてくれるだろうか、人柄、公約から推察しなくてはならない。新幹線を在来線とつないだ高村坂彦元市長は、大挙して反対に来た市民たちに「これは市民のためにするんだ」と追い返した話は有名だ。街中に新幹線を走らせる勇気は大したものだった。
それが本当の市民目線だ。つまりインフラ整備が行政にとって最大の事業だ。下松市は道路を通すことで多くの住宅やお店が張り付き、人口を増やし、子どもが増えた。市長の仕事はそれを発想し、事業化することだ。具体的な作業は副市長が先頭に立ち。形にすることだ。事務方のトップの副市長は全身全霊をかけて親分、市長を支えることだ。そんな市役所を夢見るのは私だけか。(中島進)

平成を駆け抜けた「日刊新周南」

~市民目線を貫く~
4月1日に新元号の「令和」が発表された。4月1日は新年度の始まりでもある。そして「日刊新周南」創刊記念日でもある。34年前のこの日、「日刊新周南」第1号が世に出た。「徳山公論」が生まれ変わり、周南地区4市2町をエリアにしたローカル紙としてスタートした。昭和60年だった。それから4年足らずで平成になった。
「日刊新周南」は創刊以来、ほとんどを平成の時代を生き抜いてきた。バブルがはじけ、多くのスポンサー、読者が目の前から姿を消した。徳山の商店街も「徳山公論」時代からの読者が次々と閉店、見事に力を失って行った。何とか立ち直ったかと思えば、今度はリーマンショックで、建設業など多くの会社が姿を消した。経済的に激動の平成だった。
自然も猛威をふるった。平成3年の台風19号はここ周南地区でも大きな被害をもたらした。1週間も続く停電で、わが社も新聞発行が危機的状況になった。電気が通った親しい印刷会社にパソコンを持ち込み、印刷も依頼、一日も発刊を止めることなく乗り切った。その後は阪神大震災、そして東北大震災、日本列島で多くの災害が頻発した。まさに大災害の平成時代だった。
毎日の紙面には多くの市民が登場している。花いっぱい運動で地道にコツコツと活動している人。清掃活動に汗を流す市民。ビジネスで頑張る地元経営者の人々。スポーツで地域を支える人たち。文化で地域を明るくしている人たち。紙面に登場してもらうことで、少しでもその労に報えたらと取材を続けてきた。市の広報かと言われるぐらい行政情報も載せてきた。結果、読者や、スポンサーからの温かい支援を受けている。
行政や政治家には厳しいと言われる。当然だ。私たちは常に一生懸命働いて税金を納めている人たちの視点で考える。一円たりとも無駄に使ってほしくないからだ。どんな不祥事があっても行政を擁護するような政治家はいらない。失敗があっても責任を感じていない行政マンはいらない。権力を持った人たちは、常に謙虚であって欲しい。市民には投票する権利しかない。
1947年から73年間地方紙を発行している。何度も息切れしそうだったが、なんとか続いている。権力に媚びらず、一貫して市民目線で新聞を作ってきたつもりだ。4月1日を迎えるたびに、新たな気持ちになれる。「令和」の時代も生き抜いていけるか。時代はこんな「日刊新周南」を求めているか。(中島

韓国の友人に感謝!

~民間交流が最大の武器~
20数年前、小野英輔サマンサジャパン会長などと日韓親善協会を立ち上げた。黒神公直遠石八幡宮名誉宮司を会長に頼み、韓国・慶尚南道の馬山市との民間交流が始まった。40年以上前には、徳山商工会議所と馬山市商工会議所との姉妹縁組が締結され、双方の議員たちが、訪問し合っていた。
まずは子どもたちの交流をと、馬山市市民マラソン大会に、中学生と、一般のランナーを連れて参加した。記録の取り方もいい加減な、市民が楽しむマラソン大会だった。馬山市民が伴走したり、和気あいあいのムードで、楽しい思い出いっぱいの交流になった。スポンサーがついて、1万人規模の大会になったので、参加を止め、中学生のサッカー交流に切り替えた。
馬山中央中学校という私立中学校が交流相手だった。中には日本が大嫌いと公言する校長もいたが、交流している間に、大の日本ファンになった校長もいたり、中学生たちは未だに貴重な体験を喜んでいる。資金不足で2年前で中断しているが、日韓共に、ニュースなどで知るイメージとの差に、子どもたちは素直に驚きの声を作文に記している。
慰安婦問題や、徴用工問題などで日韓の間がもめている。前には竹島問題で荒れた。10年以上前になるか、馬山市議会で竹島が韓国領だと決議、韓国のマスコミも大きく取り上げた。その最中に馬山商工会議所が徳山に訪問団を派遣することになった。当時キム・サンシルさんが会議所会長をしていた。なぜこの時期に日本に行くのか、と韓国マスコミから突っ込まれたが、「友達に会いに行くのがなぜ悪いのか」と突っぱねた。逆に予定の人数より多くの議員団を引きつれて徳山を訪れた。
このたび、小野さんなどと馬山市を訪れた。キムさんや仲間たちが歓待してくれた。古い友人として心から喜んでくれた。政治家の言い合いにはうんざりしている様子だった。報道だけ見ると、ほとんどの韓国の人たちは日本に反感を持っていると思わせる。日本もヘイトスピーチなどがあって、韓国のマスコミもそこだけ強調する。しかし私たちは長い間交流活動をしてきて、多くの友人を得た。韓国でも一部の人たちが大きな声を上げている。日本もネット右翼と言われる人は極少数派だ。
日本を訪れる韓国からの若者観光客は急増している。民間人の感覚と、政治家、マスコミの感覚が大きくずれていることは、韓国の友人たちと接したらよくわかる。民間外交が広がることが、唯一の日韓問題の解決策かもしれない。政治家にはメンツとプライドがある。国際交流を進化させることに、地方自治体も力を入れるべきだろう。(中島進)

有名人を使って宣伝を!

~せっかくの周南市文化会館を使おう~

ネット社会と言われるが、まだまだテレビの力は大きい。以前、内富海苔さんから関西のテレビで、有名な芸能人が「これは美味しい」と語り、相当の注文が来た話を聞いた。周南市観光コンベンション協会発足して間もなく、やはり関西の番組で、同協会発売のすき焼き缶詰が美味しいと取り上げられ、注文が殺到したことがあった。有名人の一言がこれほど影響力を持つのには驚いた。
周南市文化会館は、全国屈指の多くのアーティストが訪れるコンサート会場だ。山口県の中では抜群だが、地方のホールとしても異例の多さだ。前からそのアーティストたちにプレゼント作戦をしようと提唱していた。地域の美味しいものをプレゼントしようというものだ。彼女、彼らが、テレビで語ってくれても良いし、ブログなどで書き込んでくれても良い。有名人の影響力を使おうという作戦だ。残念ながら、一度か二度は実践できたが、動く部隊がなかった。
特産品の売り込みは大変だ。自前で宣伝するのは大金が必要だ。全国の地方自治体が東京にアンテナショップを開設、必死でふるさと産品の宣伝を目指す。それはそれで大切だが、仕掛け方で大きな効果あることは意外に知られていない。昔、タモリさんが、全国のポン酢からどれが一番おいしいか、鑑評会のような番組をしていた。選んだのが、倉敷辺りの小さな醬油屋が作った塩ポン酢だった。当たりに当たり、注文しても中々手に入らないほどだった。いつの間にか、ここ周南ではスーパーたからが扱っていた。
先日、テレビでお笑いの出川哲朗などが徳山駅南口を訪れた番組を放映していた。どこか食べるところないかと聞くが、待機中のタクシー運転手は「無いよ」とそっけない。訪れた店は取材拒否。結局コンビニで買った弁当を持って徳山を離れた。南北自由通路を使って北口を教える人もいない。新幹線口だが、周辺の案内看板もない。南口を降りた人は北の様子もわからないままだ。せっかくのテレビ放映も、むしろ逆効果になった。
この間は福山観光コンベンション協会が当社を訪れた。同市は鞆の浦の鯛網が有名だが、2,500円の観覧チケットを読者プレゼントで使ってくれと持ってきた。次は宇部の宇部日報を訪れるという。なかなかのアイデアだと感心した。地方新聞社を使って宣伝してもらおうという企画だ。観光キャラバン隊のやり方も色々ある。さて周南市の「しゅうニャン市」キャラバン隊は成果があったそうだが、何をもってはかるのだろうか。(中島

選挙に関心薄くなるばかり

~啓もう活動をもっと!~

厚労省の統計不正は、連日マスコミを賑わしているが、庶民の関心はほとんど無いようだ。直接生活に影響しないと思っているのか。モリカケ問題で、お役人は不正をするのが当たり前になってきたのか。東大出など優秀な人が大集合している組織だが、このずさんさはやりきれない。勉強できる頭なのに、凡人と使うところが違うのだろうか。
大企業の不正もあとを絶たない。優秀な集団がどうなっているのだろうか。大人たちのモラルの劣化が著しい。自分さえ良かったら、と個人主義が横行しているのか。ちゃんと勉強してきた人たちのはずだ。公務員も、企業の人も善悪の区別がつかなくなった。一部とはいえ多すぎる。
周南市の官製談合も、市民の関心は薄い。裁判で前部長の名前まで出るぐらい、根の深さを感じさせるが、市長はじめ幹部の感覚は鈍い。個人の問題と片付けそうな雰囲気だ。研修会も外部だけに頼るありさまだ。幹部が一人一人と面談して教えていくぐらいは当たり前だ。組織としてどう対応するのか発表がない。入札日まで金額を知る人を限定するとか、チームとしての対応はどうするのだろうか。
地方選挙に関心ある市民が圧倒的に減少した。選挙管理委員会も、投票率達成目標ぐらい立てて臨んでほしいものだ。昔、明るい選挙推進協議会の一員だった。まだ多少は日常的な啓もう活動を論議していた。選挙権も18歳以上に与えられた。若者たちにどう啓もうしていくか、とくに高校生たちにどう働きかけるのか。当時もそのための予算の少なさに驚いた。
「誰がなっても変わらんけ~」が一般的な感想だ。立候補者たちも、どこをどう変えるかを訴える選挙が望ましい。金太郎あめのような公約が延々と続けば、市民にあきらめムードがまん延する。県議会議員はもっと顕著だ。県政のどこを変えていくのか、明確に訴えて欲しいものだ。議員になるのが目標ではだめだ。市民ももう少し考えてみよう。(中島進)

政策の違いはどこか?

~木村、藤井両氏へのお願い~

首長は大きな権限を持っている。市長より知事、知事より総理大臣と権限の幅は大きくなる。総理大臣の指示次第で国家存亡の危機もあり得る。市長も指示次第で、その地域の将来に大きな影響を与える。反対する職員がいたら異動させれば良い。議会は総じて現職市長に真っ向から異を唱える市議は少ない。最初「しゅうニャン市キャンペーン」は1票差で可決されるほど反対が多かったが、次年度はあっさり決まった。現職の強みはある。島津元市長の時は、百条委員会まで開かれて騒然としたから敗北の憂き目にあったが、余程のことがないと現職は強い。
さて今度はどうだろうか。このところ木村市長は陳謝の連続だ。防災無線工事はずさんな管理で、多額な出費と遅延を招いた。集中豪雨で死者まで出たが、対策本部も作らず、対応も遅れた。最後に極めつけは官製談合で逮捕者まで出した。それぞれ議会で陳謝する羽目になった。それでも多くの市議会議員は市長選で木村市長を応援するという。最初「しゅうニャン市」に反対した議員も応援に回る。
将来に向けて政策的な話し合いを議論した結果なのだろうか。何を目指すのか。どこに向かって周南市を引っ張るのか、政治家たちの役割が問われている。もちろん市長選に挑む藤井県議も一緒だ。唯我独尊だから駄目だ、では駄目だ。「政策的にここがだめで、私はこうだ」がないと駄目だ。団塊の世代が高齢者になって、地方の存亡の危機だ。若者を増やし、子どもを増やせる環境をどう作るか、明確な展望を見つけ、具体的な施策を語る時だ。もちろん千数百人いる市の職員が縦横に活躍できるにはどうするかも大切だ。新南陽駅や櫛ケ浜駅のトイレ一つ改善できない。徳山駅の豪華さの陰で、多くの学生たちがしんどい思いをしていることに思いを馳せることが大切だ。
島津元市長はやることは早かった。東川の花見用ぼんぼりの灯が中止になったが、わが社の記事を見て、すぐさま復活させて市民を喜ばせた。当然市民の要望をすべて聞けないが、姿勢の問題だ。真摯に向かい合う気持ちをどれだけ持てるか。限られた予算を有効に使う知恵の出しどころだ。木村市長、藤井県議との政策比較が楽しみだ。(中島進)

こよなく愛した徳山

~小川さんの思いを大切に~

巨星落ちる。小川亮元徳山市長の訃報は時代の変わりを感じさせた。小川市政時代、まだまだ地方も元気だった。旧徳山市はもっと元気だった。当時の平井山口県知事とは自治省時代先輩だった小川さんだけに、仲が良いとは言えなかった。総合スポーツセンターは、県の補助金などあてにせず、自前で建てた。小川さんの功績は何といっても全小学校区に作ったコミュニティー組織だ。疲弊気味だった地域が、一気に元気を取り戻した。
岡山県副知事に就任して4年目のころ、黒神直久元市長と高村坂彦元市長が、そろって旧徳山市の市長にと懇願した。当時2千万円の選挙費用を持って行った逸話もある。当然小川さんは使うことはなかった。知事への道が有力視されていたが、二人の熱意と、本人の故郷を思う気持ちが、それを跳ね返した。
剣道をしていたので、あまり頭を下げないという人もいたが、姿勢が良すぎてそう見えたようだ。市長公舎に住み、私も夜中に何度も話をしに行っていた。若造の私の意見も熱心に聞いてくれて、丁寧に応えてくれていたのを忘れない。厳しかったが慕う職員も多かった。秘書課長もしていた藤井聡氏は昨年末亡くなったと聞いたが、役所を辞しても、車いすに乗った小川さんのうしろに必ず藤井さんがいたのを、みんな知っている。最初の助役、林保人さんなどは体を張って小川さんを守っていた。
合併にも熱心で、ちょうど20年前の1月に新南陽、下松市と合わせた合併協議会が初めて開かれた。小川さんが会長になった。それから4年後に合併が実現することとなった。他市の市長からも人望熱く、異例の速さで合併協議会がスタートした。
退任後、徳山大学の理事長就任などの要請を断り、野に下った。記憶力は最後まで衰えることがなく、挨拶も驚くほどしっかりしていた。中学校時代、毎日一日も欠かさず児玉神社に拝礼に通ったと語っていたが、その思いも込めて児玉源太郎顕彰に精魂込めていた。
惜しむらくは、小川さんが存命の間に、中央図書館に「こだま文庫」の看板を付けてほしかった。その児玉神社のお祭りで「しゅうニャン市はやめていただきたい」と懇願していた小川さんの姿は忘れられない。合掌。(中島進)