コラム・エッセイ
№31 防府市の文化人は中の関から。周南市の“賢さ”は徳山毛利の藩校から。光市の政治家輩出は寺子屋から。
独善・独言 私の八代亜紀の一押しは阿久悠、浜圭介コンビの「雨雨フレフレ」ではなく「お酒はぬるめの燗でいい」でもない。作詞・悠木圭子、作曲・鈴木淳のA表の「しのぶ恋」である。この夫婦の出身地は防府市、天満宮の宮司の家系と聞く。その鈴木の前妻の有馬三重子は富海の海浜をイメージして「誰もいない海…」と南沙織の『17才』を作詞した。
防府市は「誇り高き文化産業都市」を標榜しているが、なぜここまで人材を輩出しているか、その由縁をあれこれ考えてみた。
B表に防府市と周南3市の出身またはゆかりの著名人のリストを掲載している。これはあくまで私の知り得る範囲、興味を持つ範囲で選出したもので、この段階で「阿武さんの選択はおかしい」などと難癖はつけないでいただきたい。たとえば防府市の高橋明、御園生崇男の両野球人は相当マニアックと自覚しているし、光の高橋千代は女性弁護士誕生を支援した人物で、現在の朝ドラの「虎と翼」にどう描かれるか注目しているが、何より彼女が我が厚狭高の前身、徳基女学校の卒業生ということで無理やり取り上げた。
ともかく…B表をみると人口比からして防府の人数の突出ぶりが際立つ。それも、大村益次郎や種田山頭火とかは教科書に載るレベルの有名人である。彼らが世にでたのは本人の意欲、精進ももちろんあろうが、生誕地がもつ土壌、風土とも無縁ではあるまい。
ふたつ思いつく。
司馬遼太郎「菜の花の沖」に中の関に関してC表の記述がある。全国各地の生りわいが集まる上に、交易で儲けた商人は豊満な資産を地元に分配することになる。中の関から発散する新しい波動、躍動感はどのように波及し効果を顕したか。これは光市における室積の存在価値も同様であろう。
一方、人材育成という側面。江戸時代、長州藩は借金財政を立ち直そうと「防長四白」の産業振興策を推進したが、同時に藩校や郷校(官学)での教育環境の整備を図った。江戸末期には郷校(官校)数は全国一、寺子屋の数は二番目の充実ぶりであったという。D表にその数をあげているが、何といっても徳山毛利の藩校の存在である。この流れである徳山中学や徳山高女が地域の教育を牽引してきたことが、B表周南市の著名人の“賢さ”につながったのではなかろうか。
また、熊毛郡の寺子屋の異常な数は、B表光市の伊藤博文、松岡洋右、宮本顕治に加え、田布施の岸、佐藤というビッグ政治家を育てる素地になったことは間違いない。
情けないのは我が街下松。B表の二人も他市ではなじみがないネームではないか。日立、鋼鈑などが進出するまではどなたかの言ではないが“野菜を売ったり牛を飼ったり”する刺激の少ない土地柄であったのだろうか。それでも地域格差の少なくなった現在である、今後の展開に期待を寄せている。
…がどうでしょうか。
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