コラム・エッセイ
No.51 人物考6・私の司馬遼太郎…司馬遼は私の人生のなかに何度も登場してきた
独善・独言朝、妻が「目が腫れているけどどうしたの」と聞く。私は思い当たる節がない。しばらくの後、妻が「あなた泣いていない」と言う。そうだ昨晩、映画『二百三高地』を観て2時間泣き通したのだ。
私の人生に膨らみや彩りを与えてくれた作家として松本清張と司馬遼太郎をあげた。今回は「私の司馬遼」を取り上げたい。この泣ける映画『二百三高地』は司馬遼の『坂の上の雲』の旅順の攻防戦の部分をなぞったと信じている。
㊀私が30歳の頃Sが我が社のトップに就任した。彼は我々に自己啓発のために“太郎、次郎、三郎”を読むことを勧めた。太郎は司馬遼太郎、次郎は新田次郎、三郎は城山三郎である。小倉から大阪に転勤していたこともあり清張から司馬遼に乗り換えたのである。
㊁司馬遼の小説での楽しい手法は『ついでながら』と断って物語と関連したエピソード⇒彼の溢れでる知識を披瀝する所にあろう。そんななかの一番が『功名が辻』にある。高知藩士の「乾退助」は戊辰戦争時甲斐に進軍する際、父祖である武田信玄の二十四将のひとり「板垣信方」の板垣姓に戻しして領民との共調策とした。「板垣退助」誕生のエピソードに興奮した。周南で乗ったタクシーの運転手の名前が板垣とある。「山梨県の出身ですか」と訊くと「阿東町です。地域に板垣姓はたくさんありますよ」との返答。この地の板垣一族はどのような経緯で阿東町に住み着いたのか考えるとまた興奮した。私は異常かもしれない。
㊂そのようなエピソード話を集めて紀行文にしたのが『街道をゆく』である。歴史と旅情が同時に展開されて興奮しまくってしまう。そのなかでも一番は「芸備の道」の数行である。司馬遼は毛利元就の本城の安芸吉田を通りながら、桂、福原、国司、入江という幕末の長州志士たちのルーツにあたる地名について語り、『どうするわけでもない。ただただその在所を通ってみたかったのである』と記している。
私も同じ病をもつ。A表は私が知る範囲で安芸一円から長州に渡ってきた姓氏一覧である。加えて鎌倉時代に守護の安芸武田家や地頭の毛利家に従って安芸に流れた関東武士がB表。彼らの祖先が芸州→長州に移住した事情は何か、彼らはどんな気持ちで父祖の地を偲んだのかと想像するのも楽しい。
なお、A表宇多田家は宇多田ヒカルに連なると聞きさらに興奮した。
㊃最も好きな作品は『関ケ原』。何度も読んだし何度か当地を訪ねた。6時間の長編ドラマも秀逸で森繁久弥の家康と三國廉太郎の本多正信の謀議の会話はリアリティ充分であったが、私が最も作者の意図を感じたのは、大津城門前で繩目のさらし者にされた石田三成と黒田長政の邂逅のシーン。C表はその場のナレーションの抜粋であるが何度聞いても興奮する。結局この戦は三成としては義を推し立てれば多くの賛同者がでて勝てると踏んだが、家康側の調略⇒戦の前の調整術が義を粉砕した。司馬遼は三成が憎むべき敵である長政に『かたじけなけない』と発したと書いたが、これは関が原の勝敗が戦う前から決していたことを示唆したくだりであったのか。若き石坂浩二のナレーションが爽やかに耳底に残る。
㊄司馬遼は山県有朋を筆頭にした長州の軍人たちが嫌いだ。しかし、児玉源太郎に対しては明治の一等の人物だと高い評価をしていて何かしら誇らしい気分になる。私も旅順攻略における児玉の「常識超え」を社員教育のテーマにし「昨日までの常識は明日からの常識ではない」と鼓舞した。私は前述Sの指導に従順に従ったが、私の話を少しでも覚えている後輩が何人いようか。
…どうでしょうか。
| A表:安芸→長州と移った安芸士族 | |
|---|---|
| 志道、来嶋、赤穴、粟屋、山県、椋梨、兼重、日野原、菅田、高杉、温品、財間、宇多田 |
| B表:安芸→長州と移った関東武士 | |
|---|---|
| 毛利(相模)、武田(甲斐)、井上(信濃)、児玉(武蔵)、宍戸(常陸)、吉川(駿河)、熊谷(武蔵) |
| C表:捕縛された後に大津城での三成と長政の邂逅 | |
|---|---|
| 黒田長政は馬から降りて三成の手をにぎって「ご無念でござろう」と言って自分の羽織を三成にかけた。三成は「かたじけない」と返答する。三成は福島正則を調略し小早川秀秋を家康に裏切らせた謀略の功労者が長政とは知らなかった。 |
