コラム・エッセイ
№52 光市新市誕生20周年記念事業「高杉晋作と伊藤博文」…伊藤公資料館を訪ねて新しい発見を
独善・独言松下村塾を扱ったドラマのなかで若き伊藤博文公、幼名利介17歳は粗末な着物で使い走りをさせられる軽輩者として扱われていて腹だたしい。伊藤公役の配役からしてA表の松陰、晋作、玄瑞役の3人と比較すると明らかに華のない軽量イメージになっている。
松陰先生が公を「才劣り学幼し」とし“周旋家向き”と評したことに要因があるのか…許せない。維新後あれほどの偉業を成し遂げることになる公の実力を松陰先生は見誤ったと講演のたびに恨みことばを発してきた。
光市束荷の「伊藤公資料館」で開催されている「高杉晋作と伊藤博文展」を訪ねて様々な新しい発見と新しい興奮があったのでお伝えしたい。
㊀他の偉人館同様、高杉、伊藤両公の手紙の類が掲示されているが、ここで特徴的なのは解説がまことに判りやすく機知に富んでいること。通常の古文書基調の書簡コーナーとは違ってやさしい。
㊁なかでは晋作の「防長割拠論」の必要を説き、その軍備充実のためには働かない重役の俸禄のカットで対処すべきとの主張や、薩長同盟を忠実に遵守する小松帯刀の薩摩藩に感謝と恩を訴える伊藤公の熱意が生々しく迫ってくる。
㊂高杉から井上馨宛ての手紙は重い労咳の床で書かれているらしく「文字が細くかすれている」との解説が切ない。
㊃妻梅子に宛てた手紙は2通ある。ひとつは結婚直後の維新前のものか。ひらかな交じりで「漢字の読み書きに不慣れな梅子を気遣って」とこれも説明が判りやすい。もうひとつは明治15年、憲法調査のためにベルリンから送ったもの。両方に共通なのは「留守中のことを手紙に書いて送って欲しい」と求めているところ。公としては文通を通じて梅子の語学力をあげることを狙ったのだという夫婦の間柄が偲ばれるエピソードを聞いた。
㊄その梅子夫人はその後熱心に語学に打ち込んで賢夫人に成長する。英会話もマスターして鹿鳴館の夫人外交をリードするトップレディにまでになったという。
ついでながら…梅子夫人の結婚直後の写真を息を飲む思いでみた。「凜として聡明、穏和で瀟洒(しょうしゃ)な女性である」との説明書きが誇張に聞こえない美しさである。ネットで検索されることをお勧めする。
㊅公は維新後一度も束荷に立ち寄っていない。ただ、公のルーツである林一族の始祖「林淡路守通起」の300年祭にあたり記念の西洋館を建設している(現在資料館のそばに建っている)。ただ、公は完成の直前にハルピンで倒れる。9歳まで過ごした故郷への思いはいかばかりかと思いを馳せる。
㊆以上は資料館の林館長と光市教育委員会河原様から聴取した話を交えている。始祖が公と同じという林館長は、曽爺様が公と遊び仲間であったという。「公が利口で勉強熱心で負けず嫌いであった」という自家に伝来するエピソードを大事にしていると語られた。
最初の松陰先生への恨みごとに戻る。B表は熊毛地区の寺子屋の充実度を示したもの。郡内では名家であった林一族の教育レベルは相当なものであったはず。公の家は公自身はそのような教育環境下にあった。中間出自で長州ファイブに選ばれる、僅か半年のロンドン在留で英会話をマスターする、憲法発布、国会開設を主導する→世間でいう「努力する才能」…単なる“周旋家”でこんなことができるか…松陰先生は見誤った。
…どうでしょうか。
私は講演で当館を訪れていない県民は“非県民”だと話して不評をかっているが、11月24日までの開催期間にぜひ一度…。