コラム・エッセイ
ミーファーストの果て
新しい出会いに向けて-この町・あの人・この話- 浅海道子新年早々から世界は新型コロナウイルス肺炎に蹂躙(じゅうりん)されっぱなし。爆発的に増える患者数に、死者も同じ割合で増え続けているので、しばらくは収束点の見えない不安な状態が続くのだ。大雨暖冬大規模森林火災と地球各地を脅かす異常気象に加えて、自然界から人類への警告の一つなのかもしれない。
一方人間社会では、そんな警告もものとはせずという感じで、相変わらずあちらでもこちらでも「ミーファースト(自分第一)」自分さえよければ人はどうなっても構わないという風潮が世界中に蔓延している。
そんな中で最近気になったのが3年半前相模原市の障がい者福祉施設で起こった大量殺人事件の公判の様子。これまでも世間を驚愕させた衝撃的な事件は数え切れないくらい起こっていると思うが、多くの場合犯行当時の妄想や被害者意識、追い詰められた絶望感などが背景にある。
ところがこの事件の被告は、逮捕時も法定での公判時も、おそらく犯行時も、ある意味極めて冷静で、一貫して自分の犯行を正当化している。
もちろんそんな理屈は一般に受け入れられるものではないのだが、自分の行動の異常さ結果の重大性を示されても、あくまで自分の正当性を主張して、反省や悔悟の気配は全く見られない。自分の価値観と異なる価値観は認めず受け入れようとはしない。そして自分の価値観のみが正しいのだとする。
そんな被告の言い分を聞いていると、この男、まるで某大国の大統領のようだと感じた。自分の価値基準が唯一最善だとし、その規準で全てを判断し、行動し、自分に有利な結果が得られることを求め、結果が意図に反する場合は相手が悪だと決めつけ、反論は全て「フェイク(うそ)」だとして、是非の議論には応じない。
世界の様々な場面で繰り広げられ誰も止められなくなっている「ミーファースト」の主導者と相模原事件被告の人物像を並べているうちに、いや、これは順序が逆なのかもしれないと思えてきた。某国大統領にこの被告が似ているのではなく、おそらくどんな社会の中にもいるが以前ならまともな場面には押し上げられなかったこの被告のような人間を、某国は大統領に選んでしまったということだ。
従来なら「世界平和」「国際協力」など「世界ファースト」を掲げるのが当然だと思われていた大国リーダー像を「ミーファースト」に塗り替え、それを受け入れてしまったこの世界。様々な脅威が次々と迫る中で、一人一人が「ミーファースト」では、地球も世界も日本も、地域も家族も、そして自分一人さえも守ることは出来ないと思う。人は一人では生きられないのだから。
(カナダ友好協会代表)
