コラム・エッセイ
執行猶予中
新しい出会いに向けて-この町・あの人・この話- 浅海道子先週の月曜日は何回目かの誕生日だった。誕生日が月曜日になるのは7年に一度、いや、その間に必ず一度は閏年があるからもっと先かもしれない。まあ、そんなことはあまり本筋ではないが、人にとってあまたある記念日、大切な日、記憶すべき日の筆頭が誕生日だろう。誰にも必ずあり、毎年同じ日に必ずやって来て、自分の中で1年が過ぎたことを知らせてくれる。
そんな誕生日をうれしく迎えるのは、まだ見ぬ先への期待が自分の思いの大きな部分を占めているときで、来年は中学生、高校生と、できることが増えてくることに胸を膨らませ、進学、成人、就職、結婚、次々と広がり進む人生の階段を上る資格を得ていることと自分の成長を実感する記念日として祝うことができた。
アルバムを開いて、成長の跡をたどり懐かしむことはあっても、それは未来へ続く流れの中のことで、思いの先はまだ来ぬ将来へと向かっている。そんな思いにもいつしか変化が起こって来るのも、恐らく誰にも共通したことだと思う。
まだ見ぬものへの期待よりも、確実に一年の齢を重ねた事への怖さやそれにまつわる思いを巡らす事への億劫さが強まってきて、周囲からの祝いの言葉を素直に受け取る気持ちが薄れてゆく。
「門松は 冥土の旅の 一里塚 目出度くもあり 目出度くもなし」一休禅師の作と言われるこの歌の「門松」を「誕生日」に置き換えた心境に近づいて来るのだ。もはや誕生日は、自分の成長を確かめ、まだ見ぬ先への期待に胸を膨らませるための記念日ではなく、今自分が生きていることを喜ぶ日と受けとめなければ、素直に祝えない。
最近どこかで見た誰かの言葉(誠に曖昧で、申し訳ない)に「人は誰もが死刑宣告を受けて生まれてきている」というのがあった。罪が何か、検察官が誰か、裁判所がどこかはわからないが、まさにその通り、いつかは必ずお迎えが来る自分は死刑宣告を受けた被告人で、その日の来るのを待つ身なのだろう。
だが、今はまだ生きている。つまり執行猶予中なのだ。人の世の死刑判決には執行猶予はないが、神様の判決は執行猶予付きなのだ。そして毎年巡ってくる誕生日は、今もまだ執行猶予期間中であることを確認させてくれる日なのだ。あと残りどれだけとの思いに恐れるよりも、次の誕生日を迎えられたら執行猶予期間は1年長かったことになる。
まだまだたくさん残しているしたいことも、しなければならないことも、その間に少しはやれるだろう。そう考えると誕生日を迎えることが、再び楽しく喜べるようになるだろう。死刑執行猶予。言葉はおどろおどろしいが、味わい深く感じた。
(カナダ友好協会代表)
