コラム・エッセイ
べいじゅの青年
新しい出会いに向けて-この町・あの人・この話- 浅海道子べいじゅの青年。ベージュ色のスーツに身を包んだ青年のことではなく、米寿を迎えてなお青年のように若さを保っているお人のこと。超高齢化社会に突入し、男女ともに平均寿命が80才を超えた日本。さらに政府は「人生100年」と旗を振り、年金支給を当てにせず、70過ぎてもしっかり働けとあおり立てる。
長生きはいいことだ。たとえ体は思うように動かなくても、生きていれば明日は今日よりいい日が来る希望がある。とはいっても高齢化に伴う体力の衰えは避けられないことで、去年まで出来ていたことが今年は困難になり、今できていることが来年出来るかどうか分らない。この思いを繰り返しているうちにいつか、あれも出来たこれも出来た昔を懐かしみ、それも叶わなくなった今は、明日は何をしようかと思いを巡らすよりも、昨日までの出来事の思い出にふけるようになる。これが心身共に「老いた」ということなのだろう。
65才を過ぎると「高齢者」と呼ばれ、75才になると「後期高齢者」、さらに85才を過ぎると「超高齢者」と呼ばれる。年齢の区分だから、そう呼ばれることにクレームはつけられない。呼称はともかく、事実なのだから。しかし、高齢者イコール老人と区分するとなると異論はあちこちからあがりそうだ。高齢化は誰にも時間と共に一方的に、確実に進むものだが、老人化は必ずしも年齢に伴わず、若年者にも起こりうることだから。
そんな実例を示してくれたのがOさん。わがつれ合いがうたごえの会に行って帰る度に、ほとほと感じ入って語る、素敵なお方だ。いつもうたごえの会で顔を合わせるOさんは、血色も姿勢も良い、快活な方で、張りと艶のある声で朗々と歌われるので、いつかつれ合いとも話を交わすようになったそうだ。頭の薄さは同じ程度だが、お年を聞いて驚いた。少しは上かなと思っていたら、なんとほぼ一回り違っていて、今年は米寿を迎えられるという。若々しい目の輝きに、とても信じられないと驚きを伝えると、「今、ピアノを習っています」と言われて二度びっくりだったそうだ。
孫がピアノを習っているのを目を細めて眺めているのなら微笑ましい老人の姿で、平和な日常光景なのだが、指を動かすためにピアノを弾いてみたい、どうせ弾くならきちんと習おうと教師について習い始めたのだそうだ。あのお年であれだけ歌えるだけでもお若いと思うのに、これからピアノを初めから習おうなど、とても自分では発想できない、年齢は若いがどうやら自分の方が老人なのだろうなと、瞳を輝かせながらピアノのレッスンを語るOさんに米寿の青年の姿を見たと、感嘆しきりの我がつれ合いだった。
(カナダ友好協会代表)
