コラム・エッセイ
法と良識
新しい出会いに向けて-この町・あの人・この話- 浅海道子講演のため北海道を訪れた某市の市議会議員が、帰りの飛行機で離陸前に降ろされたという報道があった。
詳細を見ると、マスク着用を求められたその市議は「それは強制か、任意か」と問い「お願い、です」との答えに「では着けない。強制は憲法違反だ」と応じず押し問答の末、機長判断で降ろされることになったそうだ。
離陸は1時間以上遅れ、乗客は大迷惑だったのだが、その市議は「自分は権利を主張しただけで、悪くない。遅れた責任は機長にある」と言っているらしい。
その報道によると、この市議の講演はマスク着用反対に関するものだったそうだ。
この話を聞いて思い出すのが、かつて時代の寵児ともてはやされた青年実業(虚業?)家が、怪しげな手段で利益を上げ疑問を投げかけられた時「していけないことなら法律にそう書いておいて下さいよ」とうそぶいた姿だ。
「違法でなければ何をしてもいい」という主張は利害が絡むやり取り、とりわけ政治的な金銭の動きでは常に聞こえてくる当事者の主張だ。だが、それでいいのか。
例えば、成人の喫煙は法で禁じられてはいないから禁止場所以外では禁煙を強制できない。しかし、乳幼児や病人のいる場所で喫煙し「やめてもらえませんか」と請われたとき「そんなこと強制されるいわれはない。禁煙の強制など憲法違反だ」と主張するのだろうか。
確かに、法規でも条例でも禁じられていないことをしても違法ではない。しかし、だからしていいということにはならない。法が定めているのは「しなければならないこと」と「してはならないこと」で、「した方がいい」「しない方がいい」は扱っていない。それを判断するのは社会人としての常識と良識で、「ダメなことは法律に書いておいてくれ」という主張は、自分は法律で決めてくれなければ自分の行動の善し悪しが判断出来ない、社会人としての常識も良識もない人間だということを公言していることだ。
それは選良と言われる人達が好んで口にする「法に従って、適切に処理している(から問題ない)」と言うのも同じで、「だからと言って、そんなことしていいのか?」という問いに答えられなければ選良とは言えないだろう。
憲法を持ち出す市議への「着用のお願い」の根拠は公共の福祉ということで、マスク非着用への乗客の嫌忌と感染拡大防止への配慮、この議員の健康状態を見ての機長の判断はこの場合、世の良識に受け入れられるものだろう。
しかし、少数対多数の対立で常に多数の主張が正しいとは限らない。村八分やクラスののけ者いじめが許されないのは、それが公共の福祉でなく多数の利益の重視で起こっているからだ。していい事、してはいけない事、法で言われなくても判断できる良識を、自戒しながら、磨いてゆきたいと思う。(カナダ友好協会代表)
