コラム・エッセイ
何とも、やりきれない
新しい出会いに向けて-この町・あの人・この話- 浅海道子痛ましい事件が、また起こった。母親と、なさぬ仲の父親となるそのつれ合いから虐待を受け、わずか5歳で逝った女の子。ほとんど食事を与えられず、やせ細ったまま閉じられた5年の人生。あまりにも痛ましい事件は、この女の子がノートに書き遺した言葉で一層哀れを誘う。
17行につづられたその文は、自分の意志で書いたのか、親から強制されたものなのかはわからないが、習い覚えた平仮名で、まるでこの世への遺書のような文をつづらなければならなかったとは、何とむごいことだろう。
同じ手が、同じ文字が、1日の楽しかった思い出を残す日記を、母の日に、父の日に、差し出す親たちへの感謝の手紙をつづることが出来ていれば、どんなにうれしかったことだろう。繰り返される家庭内虐待の中でも、特に悲しく哀れを感じる事件だった。
この女の子は母親の連れ子で、虐待は母親の新しいつれ合いが主導していたらしい。第2次大戦後、何もかもがアメリカ化されてゆく日本社会では、離婚率も増加の一途をたどり、若い人たちが簡単に親となり、簡単に別れるケースが増えたことで、家庭構成が今回のようなものになる例は多くなっていると想像できる。
継子いじめは目新しいことではなく、古くからしばしば人情話の題材になっている。しかし、話の出だしこそ悲惨なものであっても、結末はそれぞれが好ましい状態になって終わるのが大筋で、現実にも多くの場合、私の知る範囲でも、何とかやっていけていると思う。
なぜ、今回のような極端なことが起こってしまうのか。このニュースが報道されて間もなくのNHKの番組「ダーウィンが来た」ではツキノワグマの母子の話が取り上げられ、繁殖期に2匹の子グマを連れた母グマを追ってきた雄グマが子グマを殺し、母グマを我がものとする様子が描かれていた。
自分の子孫を残すために必要なのは母グマだけで、ほかの雄の子孫である子グマたちは邪魔者でしかない。この雄だけが異常なのではなく、クマの世界の掟なのだそうだ。野生のライオンでも同じらしい。
この話、今回の事件とダブってくる。この男、雄グマと同じなのだ。この事件の親たちと、そうはならなかった多くの親たちとの違いは何なのか。それは人としての情愛の有無というよりも、家庭を築くことへの責任感だと思う。
たとえ日々の営みが自分の思い通りに運ばなくても、家庭を持ち、維持する責任を果たすという気持ちがあり、時に思い起こしながら生活してゆくことが出来れば、この父親も母親も、こんな行動はとらなかっただろうに。そしてこの女の子が成長して、いつか父や母に感謝の手紙を記すこともあっただろうにと、一層悲しさが広がってくる。
(カナダ友好協会代表)
