コラム・エッセイ
きょうようの話
新しい出会いに向けて-この町・あの人・この話- 浅海道子現役リタイアした後の人生を過ごすのに必要なことは「きょういく」と「きょうよう」があることだという話は以前にもした。
「教育」でなく「きょういく」今日行くところがある「教養」ではなく「きょうよう」今日用がある事が大切ということだとつれ合いの友人からの教えだった。なるほどと、以来お気に入りの語り口になっているが、この度は漢字の教養の話。
年寄りに大切なことは転ばぬ注意と認知のトラブルに周囲を巻き込まないことと自覚したわがつれ合い。転ばぬためのステッキはすっかり体の一部になって、日々生活を共にしている。認知の方は、週に一度とはいえ現場のお勤めを果たしているからまだまだ大丈夫と言っているがそれでも気になるのか、教養を深めるための啓蒙書を購入し、熱心に読み始めた。
現代屈指の教養人と自他共に認める知識人の、日常生活から深遠な哲学の課題にまで亘る随想集。「で、どこまで読んで、どうだった?」どの位幅広い教養人になったかと尋ねると「ああ、もう十分教養は身についた」と言う。「何、それ?」といつもの如く期待少なく聞き返す。
その本によると哲学に「究極の問い」というのがあるそうだ。「なぜ、世界はここにあるのか?なぜ、自分はここにいるのか?」古今東西時代を超えて誰も答えられない問いだということが紹介してある。そうか、こんなことを心得ていることが教養の始まりなのだなと、威儀を正して先を読み進もうとして、ふと気付いたというのだ。
「何だ、この究極の問い。答は簡単だと思った」「して、その答は?」「それは自分が生きているから。2つとも、これが答になる」「自分には自分の世界しかない。私がいるから私の世界がある。あなたがいるからあなたの世界がある。世界があるのも、自分がここにいるのも、自分が生きているからだ。これには誰も反論できないから、これが答だ」こんな簡単なことがこの世の哲人賢者を捉えてきた大問題だと知ることが教養の第一歩、第1ページだと知ると気が楽になった。
他の話も難しく考えることなく、漫画を見るような気持ちで読み進めればいいだろうと、適当にページを開いて読み進んだそうだ。現代日本の叡智と目される教養人が選んだ話題の数々を読み終え、「面白かった、これで自分も物事を考える部屋が広がった」と言うのに「一回読んだから教養が深まるということにはならないよね。知識が増えて話題は広がっただろうけど」と軽くいなすと、「教養というのは知識・技術そのものではないが、自分の前にあるものをよく見えるようにしてくれる背光のようなものだろう。
教養を深めるとは、背光を強めたり、色彩を豊かにすることで、見るものの正体をはっきり分かるようにしてくれるものだろう」それは同意出来る。何を見るかは、それぞれ良く考えて選ぼう。
(カナダ友好協会代表)
