コラム・エッセイ
喜びとうれしさ
新しい出会いに向けて-この町・あの人・この話- 浅海道子新年を迎えて月が変わると、めでたい気分も収まり、ああ今年も8%過ぎたな、あっという間に一年が過ぎるなと思うことになるのだが、この月には私の、更に月が変わればわがつれ合いの、後期高齢期何度目かの誕生日が訪れ、しばらくは我が家ではめでたい気分が続くことになる。
負け戦の終末期に生を受け陸に海に無差別攻撃の中で短い生涯となっても不思議ではなかったのにここまで生き延びて無事誕生日の日付を過ぎるのは喜びであるのだが、これでまた一つ齢を重ねたと老齢化を思い知らされることで、うれしいとも思えない気もする。
普通なら、喜びを感じることにはうれしさも伴い、喜びとうれしさどちらも等価のように思えるのだが、そうでもない誕生日の到来。わがつれ合いも同じ思いのようで、去年は「今日で私はさんじゅういっさい(傘寿+1歳)」とかなり無理して喜びとうれしさを表していたが、今年も「さんじゅうにさい」と祝うのだろうか。
ところで彼に依れば、喜びとうれしさはどちらも人にとって同列のいい感情なのだが、少し質の違うことだという。どこか違う喜びとうれしさ。どこが違うのか。
自転車に乗れるようになったこと。体育祭の長距離走での、誰も自分も予想もしていなかった優勝これが一番の喜び。全くのフロックだったが、一着でテープを切る快感を得た。最上の喜び。長く浸れた。出来ないこと、出来なかったことが出来るようになるのは「喜び」。もちろんうれしいことだが、感激がある。喜びは爆発する。うれしさ。
首を負傷し全身麻痺の状態で緊急手術を受けた20年前。手術後数日して右足の小指が少し動いたときのうれしさ。出来なくなっていたことが再び出来るようになる「回復」は喜びでもあるがうれしい。うれしさははじけるのでなく包まれる。
小指が動き始めると全ての回復を確信できた。明日は必ずもっと出来ると信じられ、毎日のリハビリが楽しかった。3年前脳梗塞で緊急手術。退院後、時に激しい腰痛が走る。数歩進むことも苦痛で立ち止まる。大変な病を経たのだから仕方がないと耐えているが、腰痛もなく歩けているときは本当にうれしい。自分の足で歩けることがこんなにうれしいのかと思う。生まれてきて、何も出来ない状態から昨日出来なかったことが今日出来るようになったときに感じる「喜び」。
病んで、齢を重ねて、昨日まで出来ていたことが今日出来なくなって襲ってくる「寂しさ」。もう出来なくなったと諦めていたことが再び出来るようになったとき全身を包む「うれしさ」。
成長を祝福するのが「喜び」、回復を噛みしめ味わうのが「うれしさ」なのだと言う。喜びとうれしさ、か。どちらもいい。歓迎だ。いつも一緒に何度でも来て欲しい。齢を重ねて肉体の成長はなく、衰えの回復もないかもしれないが、まだまだ成長し回復するところはあると信じ、成長の喜びと回復のうれしさを沢山味わいたいと願っている。
(カナダ友好協会代表)
