コラム・エッセイ
親の責任
新しい出会いに向けて-この町・あの人・この話- 浅海道子戸籍の氏名に読み仮名を記す制度が5月から始まるそうだ。名前に使える漢字は決められているが、新制度では読み方にも一定の制限が加わるらしい。世の中の諸制度のデジタル化に備えた措置だそうだ。
子どもの名前をつけることに今後縁があるとは思えないが、子を授かり、それなりに頭を絞って届けた名を、この字は人名用字ではありませんと突き返されて口惜しかった昔を思い出した。我が子を得て親が最初にする公的行事が出生届で、子どもの名を記すことで、先ずは親の責任を一つ果たしたような気持ちの高揚を覚える。
「親ガチャ」という造語がある。子どもの人生は自分の努力や工夫よりも親が用意する環境で決まってしまうという、不遇への諦めや不満を表すものらしく、他にも「~ガチャ」という表現で様々に使われるらしい。到底馴染めない表現だが、近頃ではあまり耳にしなくなっているのはいいことだ。
子どもが自分の不遇をかこつとき親と関係づけることはしばしばありそうだ。もっと素敵な容姿で、頭がよく、人に好かれる性格だったら、男の子でなく女の子だったらと空想を広げ、果ては、なんで自分を産んだのだと、深刻で理不尽な問いを受ける母の嘆きを含む相談もある。
でも、なぜ生まれたのか、男の子だったのか、こんな容姿で、こんな性格なのか、全ては神様が決めたもので、何一つ親は決められないのだから、責任の取りようがない。だが、名前は違う。誕生を喜び、自分達の子であることの証として、自分達で考え、文字も読み方も選んでつけるのだから、名付けは子に対して100%親の責任で行うこと。文字も読み方も親の責任を問うことが出来る。
なぜこの名前にしたの?なぜこの文字を使ったの?と問いつめることが出来るし、親はそれに答えることが出来る。生まれた子をどんな財産と地位で迎え、どんな容姿と能力が備わって、どんな環境が用意されるのか。それは親の、子の、願望と希望とはなっても、親の責任ではない。ただ名付けだけが責任を問われ責任を負える事だと思う。
我が家に集った子ども達にも、自分の名前を大切にすること、親に責任を問えるのは自分の名前についてだけだということ、自分がお父さんお母さんになるときには子どものことと自分の責任のことを良く考えて名前をつけるのよと伝えてきた。
名前は単なる記号ではなく、この世に生を得て人生を送る中で、周りの人との繋がりはお互いに名前を通じて結ばれ、その中で身も心も成長し、人格が作られていくのだから、名前は好き嫌いを離れて自分の人格と一つになっている。
新しい制度の下でどんな文字が、どんな読み方で登録されるか、両親がどんな気持ちでその名を決めたのか、我が子から「どうして?」と聞かれたら「それはね」と優しくも威厳を感じさせながら答えてくれるようにと願っている。
(カナダ友好協会代表)
