コラム・エッセイ
目からうろこ
新しい出会いに向けて-この町・あの人・この話- 浅海道子春四月。地球温暖化の進行で季節感は大狂いだが、この月が新年度の始まりである仕組みは変わっていないから、先月までに巣立ちの儀式を終えた若者達が、学校で職場で、新入生、新卒者として新しい社会に一歩を踏み入れてゆく。
「人生に夢を持て」巣立ちの時にこの言葉を受け、齢を重ねてからは身近な若者に同じ言葉をかけた記憶のある人は多いことだろう。聞くにも語るにもいい言葉だ。
ここで語られている夢とは、未だ実現していないが実現させたい、実現するかどうか分からないが自分のために実現して欲しい望みのことを言っている。自分に与えられた人生という時間の中で、夢の実現を目指して努力を続けていく。これが自分の人生を充実したものにするのだと教え諭されてきた。
こんないい言葉も、バブル経済がはじけ若者層に「Z世代」などとレッテルが貼りつけられだすと「そもそも夢を持てる人生があるのか」と反論されて答えに窮しそうな気もするが、それはその時のこと。人生に夢を持つことはやはり良いことだと思えるし、「人生に夢を持て」と語ることは心地よいことだ。叶えたい夢で満たされた人生は楽しいだろうし、夢が実現されてゆくことを実感し、夢が実現されたことを知ることは嬉しいことだろう。
では「人生は夢だ」と言われたらどうだろう。この夢は持つ夢とは違う。睡眠中、心も体も休息し働きを止めているときに、なぜか覚醒した脳細胞の働きで、蓄積された古い記憶の断片がかき混ぜられて思いがけないストーリーを描いてみせる映像のような感覚のこと。
夢と言えば普通こちらのことで、生まれてからこれまでの体験も全ての実感が残っているわけではなく夢と似た感覚で思い出すものも多いから「人生は夢だ」と言うのも、あながち的外れではないとも思っていた。でも、その夢を見ているのは私自身だと疑いもしなかったのだが、ちょっとびっくりの説に出会った。
様々な背景を持つ若者の相談対応に携わる関心から「時間と自己」という本に目を通した。著者の木村敏氏は高名な精神科医でそこに書かれていることは一読どころか、二読三読しても理解出来ないことが多かったが、その中で「人生は夢」とある箇所が目に入り、一瞬、この先生もこんな風に捉えているのかと思ったが、そうではなかった。その夢を見ているのは自分ではない。誰かは分からないが自分ではない何者かが眠りに就き夢を見始めたときが自分の誕生で、夢が覚め目覚めたときが自分の人生の終わり、臨終の時。
人生をそのように解釈することも必要ではないかと投げかけておられ、すぐにその通り、分かりましたとはならないが、自分の人生は自分とは無関係な誰かの見ている夢なのかもしれない。
言われてみればそんな解釈も出来ると、目からうろこの驚きだった。私の人生は誰の見ている夢なのか、気がかりなことがまた増えた。
(カナダ友好協会代表)
