コラム・エッセイ
文月(二)
随想 季節の中で 西﨑博史(周南文化協会会長)夏の高校野球県大会が開幕、熱戦を繰り広げています。白球を追う若者の姿はさわやかです。コロナ禍で甲子園出場の夢が断たれた一昨年の記憶もあるだけに平常の有り難さが身に沁みます。青春の輝きを見つめながら7月は母の思い出につながります。
母のぶんもひとつくぐる茅の輪かな 一茶
6月30日に遠石八幡宮で夏越の大祓式があり、無事に健康で夏が越せますように祈りました。ご案内に添えてあった小林一茶の句は何と優しいのでしょう。江戸後期の俳人小林一茶は奥信濃の寒村に生まれ、江戸で苦労して50歳で帰郷、52歳で結婚しました。
幾つになっても母を慕う気持ちはぬぐいがたくあります。歌集「一握の砂」「悲しき玩具」で知られる石川啄木もまた赤貧の中、多くの歌を残しました。
たはむれに母を背負ひてそのあまり軽きに泣きて三歩あゆまず
故郷の岩手県渋民村を追われる如く後にして北海道を転々とし、仕事を求めて東京へ。1909年(明治42)東京朝日新聞の校正係の職を得て3年後、家族の暮らしを背負いながら寂しく27年の生涯を閉じます。
私の母は1984年(昭和59)病に倒れました。享年67。息を引き取った7月2日朝の真っ青な空が忘れられません。肉親との別れの辛さを知りました。私は今、母の齢を悠に超えてしまいました。
1917年(大正6)田布施町川西の農家に生まれ、光市に嫁いで戦後は父と懸命に小さな商家を切り盛りしました。食糧難の戦時中は米や野菜を求めて徒歩で実家へ。空襲を免れた我が家は戦後、東京で暮らしていた父の次兄一家の疎開先になりました。父が戦地ニューギニアから復員してきたのは終戦1年後の夏でした。母はどれだけ苦労してきたことかと思います。
光市から田布施町へ抜ける道や城南小学校辺りを通るたびに幼き母、若かりし母の姿を想像します。母と別れた後、寂しく過ごしていた父も2000年(平成12)鬼籍に入りました。享年89。毎朝、般若心経を唱えながらご先祖様へ感謝を捧げます。このようにして命はつながれてきたのだとつくづく感じます。
