コラム・エッセイ
弥生(二)
随想 季節の中で 西﨑博史(周南文化協会会長)「暑さ寒さも彼岸まで」。暮らしの中から生まれた言葉でしょう。春分を中日とした7日間が「お彼岸」にあたります。まだ寒さは残りますが、彼岸を境に桜のつぼみもふくらみます。お墓参りを済まされたことでしょう。お供えのぼた餅を作るのもこの頃です。
「暖かくなりましたね」「お変わりありませんか」。墓所ではあちらこちらで挨拶が交わされます。相手を気遣う言葉が優しく響きます。色とりどりの花も供えて一日中、線香の煙が絶えません。
手に持ちて線香売りぬ彼岸道 高浜虚子
彼岸会の故山ふかまるところかな 飯田蛇笏
松山に生まれ、鎌倉に住んだ虚子。虚子に学び、山梨の山村で暮らした蛇笏の句からそれぞれの情景が浮かび上がります。
戦前戦後とまだ貧しかった日本の社会。農山村や漁村は「家」を中心に助け合う「協同」の中で暮らしが成り立っていました。親戚付き合いも深く、盆や正月、法要などの行事を大切にしていました。父や母に連れられて実家や親戚の家によく行ったものです。
母の姉の嫁ぎ先は光市小周防の農家。彼岸の入り3月18日の長徳寺の「市」は懐かしいです。縁者が集まり、農道を歩いて小高い丘の上の長徳寺へ。参道は露店で賑わい、小躍りしながらお参り。その嫁ぎ先ではご馳走をいただき、大人は久しぶりの「ハレ」の場でお酒も入って盛り上がります。ちらし寿司や煮しめ、ぜんざいに似たいとこ煮などのご馳走も子どもには苦手なものでした。日常は質素な暮らしです。お祭りや法要は非日常、いわば「ハレ」の場なのです。その場が人と人、人と地域をつないでいました。
昭和30年代半ばから高度経済成長によって暮らしは豊かになりました。国民総中流社会といわれた時代もありました。都会へと人口は流れ、核家族化が進む中で豊かさと引き換えに人のつながりが薄れてきました。お家で一緒に暮らしていた人が亡くなり、人の死を身近に受け止めて人の一生を肌身で感じることも同時に薄れたのです。
法要は故人を偲ぶとともに残された家族、遺族にとって助け合う心、つながることの意味を考えさせてくれる場です。わが家の菩提寺の共同墓地が自宅近くにあります。父の実家の墓前で合掌しながらご先祖に感謝を捧げます。彼岸会は迷いの世界「此岸」から悟りの世界「彼岸」に至るための法要とされます。
虚子の句「彼岸道」は、日々修行につとめながら彼岸へと続く道なのでしょう。凡夫の身には遠き道です。
