コラム・エッセイ
(44)旧長生炭鉱
再々周南新百景 佐森芳夫(画家)![]()
宇部市の床波(とこなみ)海岸を、訪ねてみた。これまで、何度か訪ねたこともあったが、坑口が見つかったことや遺骨収集のため潜水調査が行われたことなどの報道を見聞きして、ふたたび訪ねてみることにした。
海岸線には、どこの海でも見られるような瀬戸内の美しい砂浜が続いているが、他所とは違い、海底炭鉱の水没事故による犠牲者の冥福を祈るために保存された「ピーヤ」と呼ばれる2本の排気筒が海上に立っている。
海岸を囲む防潮堤には、「長生炭鉱と石炭産業」という説明板が取り付けてあった。それによると、長生炭鉱は大正3年(1914)に開鉱された海底炭鉱であり、最盛期には炭鉱内外で約千人の人が働いていたという。
そして、記載は次のように続いていた。「昭和一七年(一九四二年)二月三日、本坑口から約一キロメートルの坑道内で異常出水し、坑内で働いていた一三六名の朝鮮半島出身者を含む一八三名が犠牲になりました」
水没事故の説明は、そこで終っているが、それですべてが終わったわけでは決してない。『宇部市史』には、犠牲となったほとんどの鉱夫を海底から引き揚げることができないまま、本坑を廃坑にしたと記されている。
そして、本坑は廃坑となったが、二坑、三坑を開き石炭採掘を続けたことからも、国策として石炭採掘が優先されたことがわかる。183人の犠牲者は水没事故から82年が過ぎた今も、海底に取り残されたままである。
水没事故が起きた原因は、海底にあった長正炭鉱の坑道が浅かったためとされている。その危険は、日本人鉱夫から恐れられていたらしい。そのことが朝鮮半島出身者の犠牲が多かった理由になったとも言われている。
政府などの理解や支援が望めない中、ようやくここにたどり着いた苦労と努力は並大抵なものではなかったはずである。今なお冷たく暗い海底に眠る多くの犠牲者が一日でも早く救われることを願わずにはいられない。
