コラム・エッセイ
(4) 有楽町
続々周南新百景 / 再 周南新百景 佐森芳夫(画家)久しぶりに、周南市有楽町の通りを歩いてみた。50年近く前には、職場から近いこともあって、毎日のように来ていた有楽町であったが、職場が変わった数年後からは来ることもなくなっていた。
当時は、旅館、洋品店、理容店、銭湯、食堂、喫茶店など多くの商店が所狭しと並ぶ活気ある通りであった。現在では商店の数もめっきり減って、人通りも以前とは比較できないほど少なくなっている。
この有楽町という町名は、戦後復興の時に新たにつけられたもので、それより前の町名については『徳山市史』に「佐渡町南浦、油屋町南浦、西浜崎、油屋町、佐渡町」と記されている。
佐渡町、油屋町、西浜崎、それぞれが長い歴史を持っていたはずの地名が消え去ったことは、残念と言わざるを得ない。しかし、新たな地名の誕生が地域の発展に必要とされたのであれば、仕方ないことであろう。
その有楽町の地名については、以前から「東京地名と同じ」との指摘が繰り返されてきた。それに対しては、「楽しみの有る街」という意味で賑わっていたことが町名となったものとの反論がされている。
そのことが、あながち間違いであるわけではないだろう。住民の話し合いで町名が決められたとすれば、いろいろな意見があり、いろいろな思惑があり、いろいろな経過があったはずである。
ただし、それらの正確な記録がなければ、すべてがただの空論に終わるのも当然である。先日、NHK「日本人のおなまえ」の放送では、有楽町の地名に関する定説をくつがえす衝撃な証言が行われていた。
それは東京地名誕生に立ち会った人からの「東京の有楽町と地理的条件がよく似ているから有楽町にしよう」との相談がされていたという、有楽町が東京地名であったことを証明するものであった。
