コラム・エッセイ
(46)酔芙蓉(すいふよう)
続々周南新百景 / 再 周南新百景 佐森芳夫(画家)日頃は、酒を飲むことがほとんどない。飲み会など酒を飲む機会が少なくなったからだけではなく、特に酒を飲みたいと思ったことがないからでもある。当然ながら、今まで晩酌をした経験は、一度たりともない。
もともと、酒が体質に合わないのであろうか、酒を飲むことが余り好きではないように思う。しかし、下戸(げこ)というわけではない。一滴も飲めないわけではなく、勧められればそれなりに飲むことはできる。
ただ酒は飲めるのかと批判を受けそうであるが、それだけ酒席での付き合いを大切にしていたと言えるのではないだろうか。飲めない酒を無理して飲むのも社会人としての務めだと教えられていた時代でもあった。
「酒は百薬の長」という言葉がある。辞書には、「適量の酒はどんな良薬よりも効果がある」と書かれているが、はたしてどうであろうか。残念ながら、聞こえてくるのは飲酒による悲惨なできごとばかりである。
いずれの場合も、飲んだ酒の量が「適量の酒」ではなかったことに原因があったのだろう。それはそのまま、酒には「適量の酒」で満足することができなくなるほどの魔性の力があるということなのかもしれない。
吉田兼好は『徒然草(つれづれぐさ)』の中で、百薬の長とはいっても全ての病は酒から起きている、酒を飲むとろくなことがない、などと書いているが、そう言いながらも酒飲みに罪はないと擁護も忘れていない。
適量をたしなむためにぜひとも手本にしたいのが、酔芙蓉の花容ではないだろうか。早朝から咲き始めた白い花は、昼を過ぎたあたりからほのかにピンク色に染まり始めて、夕方近くになると紅色に変わっていく。
その変化は、気づくことができないほど緩やかであり、静かで、上品にさえ思えてくる。所かまわずわめき散らすこともなければ、だれかれかまわず絡むこともない。羽目を外すことなく、しぼんで一日を終える。
