コラム・エッセイ
(89)享保大飢饉供養塔
続々周南新百景 / 再 周南新百景 佐森芳夫(画家)周南市戸田から湯野に向かう県道27号沿いに、一基の石碑が建っている。かなり大きな自然石であるが、山肌に掘られた窪地にあるため、石碑が建っていること自体に気づかないまま通り過ぎる人が多いかもしれない。
近くに車を停める場所がないため、道の駅ソレーネ周南から歩くことにした。先日(16日)行われた「戸田 灯籠流し」の余韻が色濃く残る夜市川沿いを湯野に向かって進んでいくと、20分ばかりで石碑の前に到着する。
石碑の正面には「南無阿弥陀佛」、側面には「享保十八年 浄土妙典経石納塔 光西寺八世智観法印」の文字が刻まれていることから、大飢饉による餓死者の霊を弔うために建てられた供養塔であることが確認できた。
また、反対側面の明和元年(1764)と光西寺九世の名前は、三十三回忌法要が行われたことを表すものであろう。そのことから、享保十七、八年(732、3)に起きた飢饉の被害がいかに大きかったかを知ることができる。
石碑がなぜ戸田と湯野の中間地域にあたるこの場所に建てられているかについての答えは、戸田西阿高の光西寺(浄土真宗本願寺派)門前にある寺の説明版(戸田地区コミュニティ推進協議会)にくわしく書かれている。
それによると、食べ物を求めて湯野の人は戸田に向かい、戸田の人は湯野に向ったところ、この樋口あたりで力尽きて死亡する者があったという。さらに、苦しさのあまり法界淵に投身自殺する者まであったらしい。
道路の拡張や河川の治水工事などが行われ大きく変わった現在の風景からは、当時の様子をうかがい知ることは不可能であろう。供養塔も移動したと思われるが、こうして記録が残されていることが貴重と言える。
飽食の時代と言われる現在では、飢饉の惨状を想像することは難しいかもしれない。しかし、餓死者の霊を供養することによって、いつ何が起きてもおかしくないことを静かに考えることも、時には必要であろう。
