コラム・エッセイ
(90)須々万八朔(はっさく)祭
続々周南新百景 / 再 周南新百景 佐森芳夫(画家)8月26日(土)、周南市須々万で八朔祭が開かれた。八朔祭は、飛龍八幡宮の境内社、菅原神社の例祭であり、陰暦の八月朔日(さくじつ)に行われたことから八朔祭と呼ばれている。朔日とは、月の第一日のことである。
『都濃郡須々万村誌』によれば菅原神社は、五穀成就祈念のため宝暦2年(1752)に太宰府天満宮から菅原道真の神霊を殿木原に勧請し「菅原社」として祀られていたが、明治6年には「菅原神社」と改称されている。
その後神社の合併政策によって、明治39年に飛龍八幡宮境内に奉還され現在に至る。これら菅原神社の由緒から考えると、八朔祭の起源として紹介されている元和5年(1619)との130年以上の隔たりが気になってくる。
同村誌を調べてみると、「飛龍八幡宮」には、元和5年悪疫が大流行した時に鎮静を祈ったところ、霊が現れたので村民は喜び、八月朔日大踊りを計画して神慮(しんりょ)をなぐさめたと記されている部分があった。
この飛龍八幡宮の八月朔日大踊りが、後に境内社となった菅原神社の例祭である八朔祭と一緒になったとも考えられるが、確証があるわけではない。何もそこまで正確さが求められるものではないとも思われるが。
4年ぶりに行われた須々万八朔祭では、子どもみこしや須々万婦人会、老人クラブみどり連合会の踊りが奉納され、大名行列や神霊が台車に仕立てられた網代輿(あじろごし)に乗って御旅所に出かける御神幸があった。
先払いの「したにーしたに」の掛け声とともに大名の代役となる馬に乗った大拝司(だいはいし)と小拝司(しょうはいし)が多くの者を従えて続いた。そこでは、四角い衣服を身にをつけている大拝司が目を引いていた。
これは、竿衣(さおぎぬ)と呼ばれるもので、菅原道真を出迎えをする時に支度が間に合わず物干し竿にかかったままのものを着たからと伝えられている。その理由を知ると、祭りを観る楽しみが一段と深まってくる。
