コラム・エッセイ
清少納言と富海
ちょこっと豆知識 立入塾多くの高校生が清少納言に対して苦手意識を持っているのは、古典の授業の所為だけではなく、紫式部に責任があるのかもしれません。紫式部は自身の日記の中で清少納言を、「知性をひけらかし周りからチヤホヤされてはいるが、いずれは上手く行かなくなるだろう。」と言った意味の一節を残しています。古典、特に清少納言が苦手であった高校時代の私は、正にそうだと頷いたものでした。
ところで当時の清少納言と紫式部の関係はどういったものだったのでしょうか。二人の生没年ははっきりとはしていませんが清少納言が10歳近く年上でした。時は一条天皇の時代、中宮(皇后)定子は関白藤原道隆の娘です。この定子に仕えていたのが清少納言です。
定子は父道隆が病気で急死してしまった頃から不運に見舞われます。自分の兄で道隆の嫡男伊周と道隆の弟道長との権力争いに巻き込まれ、更には定子自身の病気などで一時は出家をしています。清少納言がそんな定子を励まし喜ばそうと綴ったものが枕草子でした。
しかし、道長が関白となり、定子も若くして世を去ってしまいます。そしてそれを機に清少納言も宮仕えを辞しています。道長の娘彰子が新たに一条天皇の中宮となりますが、彰子に仕えたのが紫式部でした。紫式部が宮仕えを始めるのは、清少納言が去ってから数年後の事なので二人が直接出会っていた可能性は低いようです。亡き定子への思いを募らせる一条天皇に対して彰子を思いやる紫式部の気持ちが、清少納言に対する酷評に繋がったのかもしれません。
清少納言は10歳前後の頃、父清原元輔が周防守として赴いた防府で4年間過ごしています。その4年の間で一度くらいは富海の海岸から美しい景色を眺めていたかもしれません。
防府出身の作詞家有馬美恵子氏が「17歳」で描いた誰もいない海を。そして、清少納言が苦手な17歳だった高校生が初めてデートした海岸を。
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