2021年11月30日(火)

コラム「一言進言」

徳大50周年に思い出す

〜清貧で熱かった高村元徳山市長〜

故高村坂彦元徳山市長のことは何度も取り上げてきたが、先日徳山大学創立50周年の式典に参加して、改めて高村さんのすさまじいリーダーシップを感じた。市長時代に成し遂げた偉業は、今日の周南市、いや周南地域全体に大きな足跡を残した。

周南団地、周南バイパス、広大な緑地公園、そして新幹線駅の在来線駅との併設と、15年間の市長在籍の間に成し遂げた事業の数々は、全国の市町村長の中でも歴史に残る人物によるものだと断言できる。徳山大学もその一つだ。

わずか5カ月の市議会審議で可決して、大学設立を果たしたが、当時も「多額の財政負担をするようになるのではないか」「大学は必要か」などの反対論があった。今と同じように反対論者はいたようだ。結局、市立民営大学としてスタートした。しかも徳山高専も誘致し、一帯を「学園台」として山口県東部の唯一の高等教育の場として定着させた。

設立当時、私の父は高村市長に仕えていた。その少し前、私がまだ小学6年、中学1年ころだったが、市営住宅の我が家に同僚たちが訪れ、度々安酒を飲みながら、口角泡を飛ばすけんかになり、最後には取っ組み合いのけんかをしていたのを覚えている。懲りない面々はそれでもしょっちゅう集まり議論していた。子ども心で「なんでわざわざけんかするために集まるのか」と不思議でならなかった。

しかし、大学生になり県外にいたころ、ある日大手紙の社会面に「市民のために日曜窓口開く」と徳山市の住民課が平日に動けない市民のために、全国で初めて休日窓口を開いたと掲載された。当時父は住民課長だった。誇らしかった。

父の同僚たちも用地買収、国との交渉など、縦横無尽の働きをしていたと随分時を経て聞いた。卓越したリーダーだった高村市長には、けんかしながら議論して、何とかしようとする役人たちが下にたくさんいたことも知った。

今、できない理由ばかり考える行政マンが増えた。街のど真ん中に新幹線を走らせようと言う高村市長に、「それは無理です」と言わず、必死で住民の理解を得ようと頑張る行政マンは、当時毎晩、取っ組み合いしていた父の同僚たちだった。

高村さんが徳山大学理事長の最後のころ徳山に帰り「日刊新周南」を立ち上げた。何度か大学を訪ねて話を聞いたが、まだまだ熱かった。自宅にも呼んでもらい、新聞の記事のここがだめだと、万年筆で机をコンコンと叩きながら説教も聞いた。当時まだ高村さんは借家住まいだった。最後まで清貧で熱い人物だった。

(中島 

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