コラム「一言進言」
「周防猿まわし」9月公演に行こう
〜もし本格的劇場ができていれば?〜
■「日刊新周南」創刊から来年はまるまる40年を迎える。創刊時、下松市と光市も発行エリアとしたことから足しげく出向いていた。当時出会った人は強烈な個性の人も多かった。下松では河村五良県議会議長や山田宏山田石油社長など、光では藤井軒逸富士高圧フレキシブルホース社長や河野博行県議など、まだ30代の若輩の私を可愛がってくれた。そんな中、「周防猿まわしの会」を立ち上げた村崎義正氏と出会った。周防猿まわしの会は間もなくソニーのコマーシャルなどで一躍有名になった。
■強烈な個性の持ち主だった。すでに市議会議員はやめていたが、議員当時、日本共産党の所属ながら議会運営委員会の委員長に選ばれるなど、党派を超えた人気があった。激しい性格だったが人への優しさは格別だった。しかし、猿の調教となると別人のように厳しかった。小さな猿の背中に食いつき、ギャーッと泣き叫ぶ声と形相は、見てはいられなかった。
■彼の猿まわしの始まりは、レコード「日本の放浪芸」を出した俳優・小沢昭一や民俗学者宮本常一との出会いからだった。光市の浅江付近では明治時代から猿まわしで生計を立てていた人がいた。被差別地域だったころ、生きるための芸を身に着けた。猿まわしという大道芸で全国を回り、一つの大衆文化として発展したと聞いた村崎氏は、猿まわし芸の復活を目指した。
■酒が好きだった義正氏に何度か自宅に呼ばれ酒を飲んだ。部落解放運動の先頭に立って活動していたころの話など、大きな声で良くしゃべった。小さな小屋を建て、いつでも猿まわし芸が見られるようにと奮闘していた。いつかもっとちゃんとした劇場を作りたいと夢を語っていた。
■その夢は1986年に浅江の猿まわし小劇場、89年に阿蘇山のふもとの本格的な劇場の阿蘇お猿の里・猿まわし劇場として実現したが、その翌年、56歳の若さで逝ってしまった。その活動は現在は長男の與一さんが受け継いでいる。阿蘇の劇場は連日多くの観光客で賑わった。私も2度見に行ったが立派なものだった。
■周南地域で常設の他県からも集客できる劇場は珍しい。阿蘇に移る前の、浅江の小劇場で公演があった当時、下松市のホテル幾久屋の近間社長が話していたのを思い出した。「周防猿まわしが出来て、最近は昼に観光バスが寄って昼食を食べてくれるので助かっている」と。影響は下松でもあった。
■義正さんが亡くなって後日談だが、ちゃんとした大規模な劇場建設に光市は全く非協力的だったのは、一部の市議会議員が「劇場を作ると光市全体が同和地区と思われるから許さない」と市長をかなり脅していた、との話だった。真偽のほどはわからないが、事実だとしたら悲しい話だ。阿蘇の劇場を誘致したのは小さな村だった。
(中島 進)