コラム・エッセイ
No.98 新浪事件…濡れ衣だったらどうする リークはなぜ成り上がり者の末路なのか 学ぶは田中角栄、田沼意次だったか
独善・独言新浪剛史氏に触れたい。
㊀同様、時代の寵児から奈落の底に落とされた事例がは多い。田沼意次、田中角栄、カルロス・ゴーン、ホリエモン…いくらも例があろうがロマン派(=横道派)の私は「橋本忍」脚本の「砂の器」の「和賀英良」を想い起してしまう。彼らが既存の権威に依存せず、自らの才で築いた“成り上がり者”の存在基盤はもろかった⇒“砂上の楼閣”でしかなかったことを示唆していないか。
㊁真相はどうであったか、“濡れ衣”であるかもしれないが、今後明確になっていくと思うので置く。氏のこれまでの強気で我が道を開拓してきた軌跡のほころびは、今後“報道の力”で、あることないことが明らかになってくるに違いない。
ただ、「松下幸之助語録」のなかに『自分の周囲に起こることはすべて自分のせいである』という至言がある。結果有罪であろうが無罪であろうが、今回の“凋落”の要因が自らがまいた種にあることは間違いない。
私はフジテレビを買収しようした時期のホリエモンが嫌いであった。今も雑誌「致知」での新浪氏や北尾吉孝氏のそれらしい主張を素直に聞けない自分がいる。“成り上がり者”嫌悪の狭い料簡であることは自覚しているが、世の中の“転落者”には何らかの共通項がありはしないか。
㊂「べらぼう」田沼意次との比較はどうか。田沼は武士の常識的な規範を乗り超えて経済改革を推し進めようとした。当然、譜代大名を中心とした伝統的な価値観にしばられた守旧派との対立種になる。新浪氏は田沼の失敗に学ばなかったのだろうか。既存の体制こそが我がアイデンティティである周囲の目への考慮をどこまで推し量ったのだろうか。
㊃一方、これも“報道の力”で明らかになっていくであろうが、なぜ表立つことになったのだろうか。逆に言えばなぜ表立たせたのだろうか。もし無罪であったなら、このプライバシーの漏洩はどういう犯罪になるのか。大川原化工機事件のようになれば取り戻すことができなくなる。
㊄ただ…経済同友会の代表幹事を退かない理由に、起訴前に責任をとることの是非=推定無罪を主張した。一見正論にもみえるが、同友会の中で以前通りに職務を果たせるかどうかの判断基準はなかったのだろうか。ここでは“潔く”という選択もあったのではないかと私は残念に受け止めた。
私の知人の高名な弁護士A氏は人身事故を起こした際、刑事事件ではないにも関わらずその事故原因の裁判が確定する前に、起こした事象の責任をとって、顧問先のすべてに契約解除を申し出たと聞いた。氏は不慮の事故で多くを失ったが魂は残した。私はそう受け止めたが…。
㊅サントリーでの現段階での辞し方を“日本的”と指摘した発言を聞いた。何が日本的なのだろうか、アッサリ辞めたという面なのか。
我が国にも復活後のキングメーカー田中角栄を筆頭に、周囲から批判を浴びながらも粘り強く居座り続けた例はいくらもある。歴史上では後白河法皇や松平定信、近代では東條英機や三木武夫、そして今の時代にも石破さんやどこかの女市長など立証者がワンサカいるではないか。
むしろ天下をとった者は簡単にはその権威を放棄しない…これが日本的といえないか。
㊆自分の周囲でも三菱UFJ銀行の貸金庫番事件ほどではないが、カネを扱った職場だけに、何回かこの手の転落事件に遭遇した。ほとんどが「やっぱりな」ではなく「あの人がマサカ」というケースであって、発覚により一夜にして自らのヒストリーを喪失することになる。
何年か前のトップが排斥された事件は、せめぎあいという要素もあったので置くが、40年近く前、性的犯罪でクビになった仲良しの同僚には、語りかける言葉もなかった。
以上、新浪事件は私に様々な思いをわきあがらせてくれた。今後の展開を注目せざをえない。
皆様は…どうでしょうか。
