コラム・エッセイ
命と名前
新しい出会いに向けて-この町・あの人・この話- 浅海道子マスク・手洗い・アルコール。新型コロナウィルス対策の三種の神器として、あっという間に日常生活に浸透し、定着した。一年前なら、電車の中で顔を覆い尽くすようなマスク姿の人を見ると異様な感じがしたものだが、今ではマスクなしでいると周囲からの非難のまなざしを感じるようになった。
私たちの職場でも、春頃までは「相談員がマスクをして面談することもありますが、ご理解下さい」という張り紙だったが、今では「御来所時はマスクの着用をお願いします」という表示になった。お昼のお弁当に向かう時以外は相談対応の電話も面談もマスクを外すことがない。
そんなマスク職場のおしゃべり時、相談者の珍しい名前の話から、自分達の子どもへの命名に話が集まった。極単純な発想からの命名や、音を選び、文字を選び、字画を占って全集中の命名をしたという話など、しばらく盛り上がって時を過ごした。
新しい命が誕生すると、必ず命名の儀式がある。戸籍には氏名を記載しなければいけないから、名前をつけることは法的な義務なのだが、同時に、親が子に対して100パーセントの責任を持てることでもある。
子どもは親から生まれる。だが新しい生命は、親を経由して誕生したということであって、その性別や形質は親の意思で決められたものではない。だから、なぜ男の子なのか、なぜもっといい顔に生んでくれなかったのかと問われても、「そんなこと言われても、困る」としか答えられない。生命の誕生は神の領域の話だ。
親の責任は生まれてからの育て方にあって、それも子どもと共にのことだから、子どもの現在の全てに責任を負えるわけではない。唯一、親の全責任と言えるのが名付けで、子どもが直接には関われない条件の中で一方的に命名され、しかも全生涯にわたってその子を表すことになるのだから「なぜこの名前にしたの」と親に問うことが出来るし、「それはね、…」と答えることも出来る。命名は親にとって責任であるし、権利でもあり、そして喜びとなる。
しかし人にとって名を得ることは、法的義務、親の責任以上に大きな役割がある。それは、人は名を得ることによって初めて人格を得るということだ。もし、誕生した子どもが名付けられなかったら、その子も周囲もその子の人格を意識することは出来ないだろう。それは生命体ではあっても人とは言えない。
我がつれ合いも生徒達との会話の中で「命の次に大切なもの、それは名前だ」と語り、思いがけない言葉をいぶかる子どもたちにその説明をするそうだ。名前をつける親の責任は思っている以上に重大だ。その日のおしゃべりもこんな結論で終りとなった。
(カナダ友好協会代表)
