コラム・エッセイ
後期楽観高齢者
新しい出会いに向けて-この町・あの人・この話- 浅海道子3泊4日の名古屋旅からご帰還のわがつれ合い殿。傘寿を過ぎて数年。後期高齢期にもすっかり馴染んだこのところ学会活動に関心を強めている。
学会といっても政治・宗教にからんだあの学会ではない。専門の学者・研究者のグループの「学会」。その学会の年に1度の研究発表討論の場である大会に顔を出すことを楽しみ心待ちしているのだ。研究者でもない、関係のある資格を持っているのでもない、研究を始めようというのでもない、そこでしか会えない誰かに会うためでもない。
一体なぜ?と問うと、学会の大会は研究発表と討論の場で、集まる人も話される内容も分野の専門ばかりで、聞いて笑って楽しめるものではないが、年に1度全国から集まる会だから、学会にとってはお祭りでもあり、希望して手続きを踏めば会員外の一般人も参加聴講できる。若者の相談支援に携わっていて、普段聞きたいと思っても機会の少ない先生の話を聞くことも出来るし、質問することも出来る。
とりわけ、普段自分が感じている疑問をぶつけて、返ってくる答を聞くのが楽しみだという。「質問って、研究者でもなく、理論も専門用語も知らないのに質問出来るの?」「少し前までは、専門知識も無い身で、それが専門の研究者が精魂込めて研究した結果に異論を唱えたり疑問をぶつけたりすることなど怖くて出来なかった。
ただ、話を聞いて知識を増やすだけだった」それがなぜ臆することなく自分の意見を述べ質問することが出来るようになったのか。年を取るということは、成長とは離れた状態になる。体力も気力も理解力も1日過ぎる度に少しずつ剥ぎ取られていくのを実感することになる。
自分よりも若い世代の意欲に燃えた相手に立ち向かえる材料は何もない。ただ教えられ受け取るだけの立場のように感じてしまっていた。
だが、傘寿を超えてふと気がついた。自分はこの人達よりも年上だ(そうでない場合もごくわずかあるが)。自分が今生きているということは、これまで自分が直面してきた様々な場面で下してきた判断、決断が全て正解だったということだ。間違っていたら命はなかっただろうから。全て正しく判断してきた自分の疑問が一笑に付されるものであるはずはないし、それを今この人に質問しようという判断も正しいはずだ。こう思うと、何の躊躇も起こらなくなったそうだ。
多少場違いでもピント外れでも構うもんか。そんな気持ちに包まれるという。「それに」質問された発表者は例外なく懇切丁寧真摯に答えてくれ、それで足りなければ手紙で回答してくれるそうだ。こんな楽しみを知ると、これからも大会通いは続くのだろう。
多くの人が、齢を重ねると不要な遠慮をしなくなるのも、齢を重ねたことから得た楽観的人生観のたまものかもしれない。大会終日40℃の気温の中を駅まで歩いたという判断が果たして正しかったのか。明日明後日、腰痛息切れで弱音を吐かないことを傍らで願っている。
(カナダ友好協会代表)
