コラム・エッセイ
第13回 再び蔓延しはじめるスペイン・インフルエンザ
大正期 スペイン・インフルエンザと山口県の人々 小林啓祐前回は「マスク」が記事に出てきたことを紹介しました。インフルエンザの蔓延を警戒する記事が出てから1か月間は目立ったスペイン・インフルエンザ関係記事は掲載されなかったのですが、1920(大正9)年1月になると、一気に山口県内におけるインフルエンザ関係記事が増加していきます。
1月になり、最初に山口県内でスペイン・インフルエンザ関係記事が掲載されるのは1920年1月7日です。ただし、その記事は正月休みあけの学校再開に向けて、はやり風邪が蔓延しないよう警鐘をならすものと、軍隊内における感染拡大に警鐘をならすものでした。
しかし、2日後の1920年1月9日の記事では、「死亡百余人」という記事が掲載されます。この時点ですでに県内でインフルエンザの罹患者が2,829人で、すでに亡くなられた方は116人にも上っていました。
1月14日にはショッキングな記事が載ります。玖珂郡小瀬村(現岩国市小瀬)において、とある一家に起こった悲劇を報じるものでした。見出しは「一家殆ど全滅 恐るべき流行性感冒」というもので、すでに7人中5人が亡くなっており、家族では看病できないので親戚が看病している状況が報じられます。この時点で、家庭内感染が手の施しようのない状況まで進んでいた家庭があったのです。
1月16日の報道では、「流感五千名」という見出しで、すでにインフルエンザ罹患者が県内4,823人、死亡者264人になったことが報じられます。一週間前に比べて罹患者はおよそ2,000人弱、亡くなった方も150人弱増加していることがわかります。最も多かったのは下関市で、男性の罹患者が893人、内68人死亡、女性の患者が687人、内53人が死亡していました。そこで県当局がとった対応法の一つが「ワクチン」でした。記事では、ワクチンの予防注射をするとともに、マスクを励行して警戒することが報じられました。
1919年12月にインフルエンザ関係の報道がほとんどなかった理由は定かではありませんが、1919年12月も流行の程度は大きかったのです。そして、その猛威は第一波に勝るとも劣らないものでした。
『防長新聞』1920年1月9日=県立山口図書館所蔵
『防長新聞』1920年1月14日=県立山口図書館所蔵
「安全で 安心して 長く勤められる会社」をスローガンに、東ソー株式会社等の化学製品を安全かつ確実にお届けしています。安全輸送の実績でゴールドGマーク認定を受け、従業員が安心して働ける環境と「15の福利厚生」で従業員の人生に寄り添っています。
東ソーが生み出す多種多様な製品は、社会インフラや耐久消費財など人々の生活に役立つさまざまな最終製品に使われています。総合化学メーカーだからこそできる、化学の革新を通して持続可能な社会に貢献していきます。
