コラム・エッセイ
第8回 スペイン・インフルエンザによってひっ迫する医療
大正期 スペイン・インフルエンザと山口県の人々 小林啓祐 前回はスペイン・インフルエンザに対する初期の対処方法についてみていきました。今回は、スペイン・インフルエンザの急激な蔓延によってひっ迫する医療状況についてみていきます。
1918(大正7)年10月30日の『防長新聞』には、猛威をふるうスペイン・インフルエンザの模様が掲載されます。なかでも、高千穂村(現山陽小野田市)では、小学校で蔓延した結果、「7名の医師は往診に寸時の暇なく忙殺され」ていると報じられています。山口中学校(現県立山口高校)の学生が1人亡くなった山口町では、山口師範学校(現山口大学教育学部)でも学生から死者が出てしまいます。蔓延のスピードは早く、10月31日の記事では、ついに「内科医は全く手廻りかねて已むなく病人を放任し」ている状態だと報じられています。
現在でも医療崩壊が危惧されていますが、蔓延開始からおよそ1週間で山口県内の医療状況はひっ迫する箇所がでてきていたのです。同記事では続いて他の個人経営の病院でも「女中看護婦妻子悉く臥床し健在なるは主人と老母のみ」という状況を報じています。「悉く臥床し」という表現は現在ではしないかもしれませんが、病に倒れてしまっている状況でした。
2週間後の11月17日の記事では、岩国町(現岩国市)の病院で院長が「危険状態」に陥ってしまったことが報じられます。スペイン・インフルエンザは人を区別しません。医者とはいえ、その魔の手からは逃れられなかったのです。
医療状況がひっ迫するなか、学校は相次いで休校となりました。11月6日の記事では、山口県内の休校した学校の数が郡ごとに掲載されます。最も多いのが厚狭郡の18で、阿武郡はまだ休校した学校は0でした。地域ごとに差はあったものの、県内で合計84校がこの時点で休校を決めていました。このようなスピードでひろまったわけですから、医療もひっ迫してしまっていたのでしょう。
それでは、こうした状況を経て11月上旬には猛威は収まったのでしょうか。全くそうではありませんでした。11月20日の記事では、岩国で151名の方が亡くなったこと、同月27日の記事では、玖珂郡の休校数が70校にのぼったとあります。まだまだ、スペイン・インフルエンザは収まる気配を見せていなかったのです。
1918年10月31日『防長新聞』=県立山口図書館所蔵
