コラム・エッセイ
第17回 スペイン・インフルエンザの終息
大正期 スペイン・インフルエンザと山口県の人々 小林啓祐前回はスペイン・インフルエンザ「第二波」の1920(大正11)年2月上旬における猛威の様子を紹介しました。猛威をふるいはじめてから2か月経っても全く収まる様子のなかったスペイン・インフルエンザ。今回はようやく終息の兆しが見える3月以降の様子を紹介します。
3月に入ると、スペイン・インフルエンザに関係する『防長新聞』の記事はこれまでに比べると激減します。それは、前回紹介した屋代村(現周防大島町)の例にもあったように、第二波は非常に危機的な状況に陥ったものの、2月後半になってくると次第に落ち着き始めたということがあげられます。3月以降で言うと、3月1日に阿武郡の姉弟が亡くなった記事の次に、「死亡者三千余名」という記事が載り、これが第二波を総括するような内容になっています。記事によれば、山口県内で1919年11月31日から翌年2月末日までにインフルエンザに罹患した人は4万9,279人で、亡くなったのは3,222人ということでした。今回調べた限りでは、翌日に掲載される3月6日に「各地の流感」として、美祢郡と熊毛郡の様子が掲載されたのちは、全く記事をみなくなります。記事がなくなったからといって、インフルエンザが終息したと決めるのは早計かもしれませんが、3月6日の記事も「目下漸次下火になれ居れり」と締めくくられていますので、当時の人たちにも一筋の光明は見えていたのではないでしょうか。
1918年冬から続いたパンデミックも、1920年2月には一応の終息をみたのです。しかし、その犠牲は悲惨なもので、記事に掲載されているだけでも第一波で約4,500人、第二波で約3,200人もの県民の方が亡くなってしまったのです。山口県統計書によれば、1921年の山口県の本籍人口は約120万人でした。2年という短期間の間に、インフルエンザで0.6%の人が亡くなってしまったというのは、実に恐ろしいことです。これは全県の平均となりますので、地域別にみればこれよりも高い割合で人が亡くなってしまった箇所があるということでした。
今回まで、時系列を追って2年間にわたるパンデミックの様子をみてきました。次回からは、再びパンデミックの最中に時間軸を戻し、社会経済にどのような影響を与えていたのかをみていきたいと思います。
1920年3月5日『防長新聞』=県立山口図書館所蔵
