コラム・エッセイ
No.30 重い言葉
美人薄命 走れ!おばさん 中村光子「今、浅海さんが、テレビに出演中よ」
友人からの唐突な電話に、私は、卓球大会で、また、世界1位になられたかと、急いでテレビをつけた。
画面は、8月6日、広島に原子爆弾が投下された時の、体験を取材中であった。
柳井に住む浅海頼子さん(92)と知り合ったのは、山口放送局主催のフランス・イタリア旅行である。内弁慶で寂しがりやの私は、旅はいつも友人と一緒で後をついて歩いていた。
50歳の初め、前述の旅に、一大決心をして参加した。同じひとり旅の浅海さんと、旅の間、同室になった。背筋の真っ直ぐな浅海さんとは、少し歳が離れていたが、すぐに意気投合した。以来、親友になった。その時、私は彼女に質問した。
「運動をされていますか?」「はい、卓球を、少しばかり…」
「柳井は卓球王国ですよね。私はチンタラと走っていて、よく大会に出ています」
少し自慢気に言った。ところが、彼女は“ベテラン卓球世界大会”の年齢別で、2度、世界1位、ダブルスでも1位になったという名選手だった。穴があれば入りたいと思ったことを、今も忘れない。
テレビ出演の話に戻ろう。その日は、原爆体験の取材であった。当時、広島に住んでいた浅海さんは16歳で、勤務先の病院は休みであった。その日、8月6日、投下された原子爆弾の爆風を浴びた浅海さんは、玄関先で5、6メートルもふっ飛んだ。初めて聞く話に、私はおもわず正座した。
学校で爆風を受けた弟さん、庭で遊んでいた3歳の弟さんは、火傷で頭から血がふき出、行方不明だった妹さんは、次の日に探してやっと逢えたが、顔がわからないほど…。幸いだったのは家族みんなが、無事だったことだ、そうだ。
浅海さんは今、原爆被害者としての体験を学校などをまわって、講演していらっしゃる。
元気に卓球をされている寡黙な浅海さんにそんな体験があるなど、私は知るよしもなかった。浅海さんは決してそのような話はされず淡々と行動されている。
放送の後、私は何度も電話をしたが、なかなかつながらなかった。やっとつながった電話で「取材で半日つぶれましたが、話の半分も放送されず残念でした」
「原爆投下から終戦日までの恐ろしさは、たとえようもなかったが、終戦日、天皇陛下のお言葉を聞いた後で戦争が終わったことを知り“ほっとした”のが、正直な気持ちでした」
私は言葉もなく聞いていたが“ほっとした”という浅海さんの言葉に胸をつかれた。
