コラム・エッセイ
No.6 伊達得夫著『詩人たち―ユリイカ抄―』より
美人薄命 走れ!おばさん 中村光子前号で、尊敬する詩人礒永秀雄(故人)と伊達得夫のことを書く、と言った。礒永先生のご子息から送られた、伊達得夫の本を一気に読んだ。興奮と張り切りすぎで、ここで筆が止まり、後が続かない。
両氏は、朝鮮の京城中学時代の同級生だ。伊達得夫の本に「スヰトピイーと駱駝」と題した章がある。
詳しい経緯は別として、ある日、伊達の所へ礒永から「君は京城中学にいた伊達得夫ではないか?」という書き出しではじまるぶ厚い手紙が届いた。伊達がその名前を思い出したのは、スヰートピイーのような頬を紅潮させながら「キオツケー」と、号令をかけた少年が、礒永秀雄だったのだ。そうだ。
礒永が小郡で高校教師をしていた頃、山口で『中原中也の手紙』という本を取り、定価を見るために奥付を開いて、発行者が伊達得夫とあり、こんな偶然があるのかと、その本を買った。
そのため、礒永は帰りの汽車賃まではたいたので、暗い夜道を小郡まで歩いて帰った。と書いている。
礒永先生は、その翌年に、同人詩誌『駱駝』を発行された。以来、伊達氏に駱駝を送り続けられた。“同人詩誌で、途切れることなく発行している詩人を知らない〟と書いている。
私が『駱駝』を知ったのは高校時代だ。3年の時はクラス担任でもあった。
礒永先生のご子息の泰明氏から来た手紙に“父は、高峰秀子のプロマイドを持っていた。それは「秀」という字が同じだからと考える”との添え書きに思わず笑ってしまった。
先生は、東大在学中に、東宝の助監督に内定していたそうだ。“戦争がなかったら、恋愛映画を撮っていたかも…。高峰秀子が松竹から東宝へ移籍したのが大きく影響したかも〟と付け加えてあった。
「父は、たまに荒々しい詩を書いていたことがありますが、私は瀬戸内のような澄み切った穏やかな詩の方が断然好きですね」と、したためてあった。
先生の詩碑が、室積湾を背景に建立した時、天志・泰明兄弟が帰郷され、ふたりはそれぞれに感謝の辞をのべられた。泰明氏は、話の途中、振り返って海をみつめられた。私はそれを鮮明に覚えている。
何年か前、泰明氏は室積に古民家を買われた。『駱駝』を少し持っている私は、そこへ詩誌を収めたいと思っている。
4月1日、礒永秀雄を研究している友人と詩碑に会いに行く。それを泰明氏に話したら、コロナ禍だが、できればその日に合わせて帰郷したいと言われた。私たちも是非お会いして先生との思い出話がしたい。
