コラム・エッセイ
No.37 遠い昔の…話(1)
美人薄命 走れ!おばさん 中村光子毎朝、近所に住むKさんとコーヒータイムを楽しんでいる。かれこれ、2年にはなるだろう。彼女の口癖は、「おたがい、130歳まで長生きしようよ」だ。130歳は無理だとしても90歳ぐらいまでは、自分の足で歩きたい。
この雑文のサブタイトルは“美人薄命”だ。徳を積み、美しく生きれば、大丈夫と言う意味合いを含む。
世間では、美人なるが故、若くして世を去る…と、都合のよい解釈をするが“生き方”が美しければ、例え、百歳まで生きても“美人薄命”だ。すでに、晩期高齢者の仲間入りの私だが、持論は覆さない。
だが…しかし…それでは、少し寂しい。愚痴話に終始している昨今、話題を変える法はなかろうかと考えた。能天気な私に、良い案が浮ぶはずもないが、唯一、3歳から18歳まで、血つながりのない祖父母に育てられた事は“宝物”として、胸内に大切にしまってある。
その事なら、今なら書ける、いや書きたい。長い間、宝物にしていたため、想いを美化したり、思い違いがあるかも知れないが…。
祖父母は、明治時代には珍しい恋愛結婚であった。残念なことに、子宝に恵まれなかった。親類筋から、やがて私の母となるひとを養女に、父となるひとが養子に入った。
そして、私と弟が生まれた。父の仕事の関係で、父母は広島県に住んでいた。母は生まれつき病弱で、ふたりの子供を養育するには無理があった。
祖父母は、3歳の私をあずかることにした。祖父は持参のへこ帯で私を背負い、富田の山裾へ連れ帰った。祖父の背中の温もりを、私は覚えている。
1歳の弟は、遠い山口に住む、父の姉の家に引き取られ、ふたりは別々に育った。
やがて、母の病は重くなり、祖父母の家に帰って養生していたが、その後、間もなく亡くなった。通夜の日、母の枕元の線香の火が怖く、遠い部屋で祖母の手枕で眠った。
葬儀の日、弔問客の間をすり抜け戯れる私に、何度も声がかかった。
「お母ちゃん、死ぬ時、何て言っちゃった」
「どねえな、エエお母ちゃんが来ても、いかんでね、言うたよ」
それを聞いた大人が袖口で涙を拭うのを見ながら「ワタシノ言ウコトデ、ミンナ、ナク」と、幼な心に思った。
