コラム・エッセイ
第五十手「歴史上の囲碁①〜日本での囲碁」
「碁」for it 小野慎吾筆者の囲碁コラムは、今回50回目の節目を迎える事となりました。このコラムは隔週掲載のため3年目に突入しました。掲載するネタにつきましては思いつかない場合も多々ありますが・・今回は節目ですので囲碁の歴史話について記載致します。
日本に囲碁が伝わったのは遣唐使の時代だと言われています。平安時代には貴族のたしなみとして好まれ「枕草子」「源氏物語」等で囲碁が描写されています。
室町時代に入ると囲碁は武家、庶民にも普及されました。その頃の有力者は「碁打ち」と呼ばれる半専業の者を抱えて競わせるようになりました。
戦国時代に入ると戦のシミュレーションとして好まれ、武田信玄他、多くの戦国武将が碁をしたという記録が残っています。この頃の碁打ちで群を抜いて強かったのが本因坊算砂です。法名を日海と称し、江戸幕府から俸禄を受けて家元「本因坊家」の始祖となりました。現在でも「本因坊」のタイトル戦があり、一番強い囲碁打ちの代名詞とも言えます。
江戸時代には本因坊家、井上家、安井家、林家の四家が囲碁の家元と呼ばれるようになりました。四家はそれぞれで優秀な碁打ちを育てました。四家はそれぞれ幕府から扶持を受けており、それぞれの宗家は血筋ではなく、囲碁の実力が最優先で決められることが多かったようです。
年に1回、江戸城内で将軍御前にて開かれる「御城碁」で四家を競わせました。四家からのそれぞれの代表者が囲碁決戦をし、負ける事は家元の大きな不名誉でした。負けた家元については弟子の集まり方にも影響したようです。
「御城碁」自体は1局に対して数日をかけて行われていました。この出来事から生まれたことわざが「碁打ちは親の死に目に会えぬ」と言われています。その頃は、勝敗が決するまで帰宅が許されなかったためです。現代の意味は、いったん囲碁を打ち始めるとその魅力にハマって夢中になり、時間の経つのも忘れて打つ続けるのが碁打ちの性です。そのため、親の死に目にも会えないほどに熱中し、周りの事が目に入らなくなるという意味で使われています。
御城碁は徳川幕府が崩壊するまで200年以上続きました。江戸時代後期になる頃には囲碁界は黄金期を迎え、たくさんの天才棋士が誕生しました。その内の一人が後に碁聖と言われた「本因坊秀策」です。漫画「ヒカルの碁」に登場する重要人物の一角がこの本因坊秀策をモチーフとしています。この漫画については連載から20年以上経っていますが老若男女問わず囲碁を始めるキッカケとして、いまだに貢献しています。
囲碁のルール等は知らなくても、この漫画は知っているという人も多い事でしょう。秀策の碁の才能は「150年以来の棋豪である」と言われており、御城碁においては13年間に19局全勝という大記録を作りました。しかし、秀策自身は34歳の若さで病死されました。
次回は本因坊秀作にまつわる有名な1局がありますので、そのエピソードについてご紹介します。
過去と未来を繋げるために「碁」for it(頑張る)!
テーブル型碁盤(本因坊秀策記念館)
テーブル型碁盤開放時
