コラム・エッセイ
(42)猫じゃらし(狗尾草)
続々周南新百景 / 再 周南新百景 佐森芳夫(画家)![]()
天気予報通り、川崎観音堂の急な石段を登るころには雨が降り始めた。本堂の屋根続きに張られたビニールトタンに、大粒の雨が激しく打ちつけられる音が辺りに響き渡っていた。
雨の日の早朝には、必ずと言っていいほど観音堂周辺に住み着いている猫のカンちゃんに出合うことができた。おそらく餌を与える人を待っていたのだろうが、そんな素振りを見せたことはない。
気まぐれなカンちゃんらしく決まった場所ではなく、本堂であったり、山門であったり、さまざまである。この日は、本堂の広縁の上に横になって毛づくろいをしていた。
川崎の高台にある観音堂からは、瀬戸内海に向かって広がる風景が一望できる。国道2号線、富田川、高層マンションや民家、工場の煙突、海に浮かぶ島々など、時の経つのを忘れる。
しばらくカンちゃんの横で雨に煙る風景をぼんやり眺めたあとで、観音堂の石段を下る。満ち足りた気分になれたのは、観音様を参拝したからだけでなくカンちゃんに出合えたからでもあったのだろう。
そんな日がいつまでも続くはずであった。続くと信じていた。多くを望んでいた訳では決してない。ほんの少しの間だけでも、カンちゃんと一緒に居たかっただけである。
6月の下旬、カンちゃんが突然天国に旅立った。わずか1年半の短い命であった。今でも、どこからかカンちゃんがひょっこり現れるような気がしてならない。
境内の片隅で猫じゃらしと呼ばれる狗尾草(えのころぐさ)が風に揺れていた。それは、まるでカンちゃんが尾っぽを振っているようにも、手を振っているようにも見えた。
さようなら、カンちゃん。さようなら。
