コラム・エッセイ
(26)枯葎(かれむぐら)(下松市河内)
続々周南新百景 / 再 周南新百景 佐森芳夫(画家)![]()
かって八城という地名があったことを、つい最近まで知らずにいた。知るきっかけとなったのが、『防長地下上申』の中に書かれている八条という地名の説明である。
そこには、八ヶ所の城山がはるかに見えることから八城といっていたものが、いつの頃か書き誤って八条となったと記されている。つまり八城こそが本来の地名ということになる。
『防長地下上申』には八ヶ所の城山として、同村の石城山、末武の鷲頭城山、徳山栄谷城山、富田建咲院の城山、富田上村城山、矢地の若山城山、戸田村の湯野の城山、富海茶臼山の城があげられている。
これら八つの城山が、果たして実際に見えるかどうかが気になるところではあるが、すでに八条の地名が消えているため場所を特定することが難しくなっている。
それでも、何んとか地元の声を参考にしながら、昭和団地第2児童広場にたどり着いた。広場には雑草が生い茂り、周囲に背の高い金網フェンスが張りめぐらされていたものの、想像以上の展望が広がっていた。
まさに八城という地名にふさわしい風景であったが、すべての城山が確認できた訳では無い。さらに高い場所に移動するため山に入ると、生い茂る女竹と山芋のツルなどの枯葎(かれむぐら)に行く手をはばまれた。
やむなく退散を余儀なくされたが、八城という地名にとっては八つの城山すべてが見えるかどうかが問題ではなく、当時はこれだけの城山が必要とされていたことがより重要であろう。
今は消えて無くなった八城という地名が物語る、南北朝時代における大内氏と鷲頭氏との激しい対立に、時には耳を傾けたい。
