コラム・エッセイ
[続・周南新百景] (74)お姫塚(周南市小畑)
続々周南新百景 / 再 周南新百景 佐森芳夫(画家)![]()
花河原(はながわら)という地名については、古くは鼻瓦と書いていたがいつの頃からか花河原と書き替えられるようになったと『防長風土注進案』に記されている。また鼻瓦と書いたのは、この地で瓦を製していたからで、多く焼き出される富田瓦の中でもこの里の物は美しいので花瓦と言われるようになったとも伝えられている。
その花河原には、お姫塚の言伝えが今も残されている。厳島で毛利氏に敗れ城主を失った若山城は、急速に勢力を弱めていった。その主な要因となったのが、晴賢の敗死を知った杉重輔の襲撃である。
援軍が来たと勘違いして門を開けると、父を殺された恨みを晴らそうとする重輔の軍勢であった。その状況に落胆した晴賢の子の長房兄弟は城内で命を絶ったとも、長穂の龍文寺に逃れ自刃したなどとも言われている。
異変を聞いた晴賢の娘(名前は不明)は、若山城が見える花河原のこの地に駆けつけたとされている。しかし時はすでに遅く、城に近づくことさえできなかったのであろう。自らの運命を悟った姫は、この地で命を絶ったと伝えられている。
集落からほど近い雑木林の中に、お姫塚と言われる数個の石の重なりがある。現在では樹木が生い茂り、残念ながら城のあった若山を望むことはできなくなっているが、すぐそばを通る山陽自動車道の騒音がまるで戦いが行われた当時を思い起こすかのように聞こえてくる。
周南市小畑の花河原では、往時を懐かしむかのように多くの梅の花が咲いていた。
