コラム・エッセイ
山なんて嫌いだった①
おじさんも頑張る!~山の話あれこれ~ 吉安輝修“お嫁さんにしたい女優ナンバー1〟と、かつて世の男性たちが憧れた市毛良枝さんだが、東京暮らしで運動は嫌い。「努力・根性・汗かく、キライ」だったというのが、誘われて登ったのがきっかけで、山の世界にハマり「山なんて嫌いだった」という本を以前出した。有名人ということもあり、多少の祭り上げられた感はあるが、とうとう山歩きや環境問題についての講演会やガイド本を出版したり、日本トレッキング協会の理事をするまでの山好きになった。
自分は周囲の影響もあり、中学校のころより山歩きは大好きで、もう何十年も嫌いなんて一度も思ったことはないし、年金をもらう歳になっても山への憧れや、まだ見ぬ峰々への挑戦心は続いている。ただ、最近になって「山なんて嫌いだった」というタイトルが何かにつけて頭の中を去来するようになってきた。
中学、高校に通うころ、何かと理由をつけて週末などに山に登る機会をうかがっていた。当時は土曜日の午後からしか休めないし車もないとなると、行動範囲は限られ、須金からアクセスのよい馬糞ヶ岳や平家ヶ岳には足繁く通っていた。そのうちに物足りなくなって芸北の山や九州の山なども気になり始める。
今では考えられないが、当時は国鉄やバスの路線網が整い便数も多く、上手に利用すれば自家用車などなくてもかなり山奥の登山口に行くことができた。土曜日の午後から移動を始めて、日帰りは無理でもテントを担いで遠征したものだ。
ただ、電車賃、バス賃に加えてテントや寝袋も必要となると軍資金の捻出に頭を悩ます。もちろん当時は酒もタバコもやらないし、周囲が女性歌手に熱狂しても気にしないし、ファッションにも無頓着だった。そんな節約生活をしてもわずかな小遣いでは追いつかない。
都合よくアルバイトなど見つかりもしないとなると最後は親に頼むしかない。当然二つ返事で出してくれるわけがないし、「大バカタレが、山に行く暇があれば杉シゴ(植林した杉の苗木の下草刈り)をせえ」と小言を言われるのが関の山だ。
もう半世紀も前のことだ、まだエンジン式の草刈り機など普及してないころで、杉シゴは鎌での手作業が当たり前の頃だ。鎌と砥石と水筒を背負って山に行かされた。一日いくらくれるのかの対価交渉では、成果主義で払うとにべもない。
鎌での作業など今思えば非効率極まりないが、ただただ小遣い欲しさにノルマを達成しようと汗を流したのを思い出す。急傾斜地を這うように登り、背丈ほどにも伸びた草や灌木との格闘など当然面白いわけがない。それでもここを済ませばテントが買えると鎌を振り続けた。
あのころ杉シゴをした杉の木は大きく成長はしているが、当時は「山なんて嫌いだった」ことしか思い出せない。

〝お嫁さんにしたい女優ナンバー1〟市毛良枝さんの「山なんて嫌いだった」

あのころ杉シゴをした杉の木は大きく成長はしている
