コラム・エッセイ
祖母〜傾山縦走記㉞ 《山のゴミから考える》
おじさんも頑張る!~山の話あれこれ~ 吉安輝修山のゴミの話からまたまた本筋からそれる。今でこそ「山で出たゴミは全て持ち帰る」というのが常識中の常識で、日帰りはもちろん1週間の長期山行でも全て持ち帰って当たり前だ。もう半世紀近くも前のことだが、身近な山の頂にも空き缶などゴミが散乱していた。かたわらに「ゴミは埋めて帰りましょう」という看板が立っていたのを思い出した。それこそ日本中の山が目に余る事態となり、取りあえずは“埋める”という消極的な対策となったようだ。
確かに昔はビニールやプラスチック製の容器など珍しく、多くは紙製か鉄製だった。それらは多少の時間がかかってもいずれは分解して土に帰るので許されていたのかもしれない。ただ、酒やビールなどの液体はどうしてもガラス瓶に頼らざるを得ない。良識ある多くの登山者はガラスなど何百年経っても分解などしないことを知っているので持ち帰ったはずだが、中には人目に着かない草むらや灌木の中に放り込んで知らん顔をして下山する輩もいたのだろう。
戦後すぐの登山ブームから何度かの大衆登山ブームがあり、多くの若者が山に登った。それはそれで良いとして、何のブームでもそうだがあまりにも急に対象者が増えるのでルールやモラルといったものが後追いになってしまうのだろう。気が付けば手遅れ状態ということも多い。山ではゴミもそうだしオーバーユースによる表土の流出や植生の変化も目に余る。
中高年の登山ブームもひと段落し、気がつけば人気の山域は別として地方の山は静かになりつつある。しかし、一度失ったものの回復には気の遠くなるような手間と時間がかかるのは皆が承知していても、さてブームが去った後の始末を誰がするというのか…。
ついでにいうと山のし尿処理も昔から問題になっていた。秋になると富士山に白い花が咲くのは有名だし、日本を代表する山岳景勝地でもある上高地を流れる梓川は一見は清冽な流れだが、何十万人と訪れる登山客、観光客のし尿により桁外れの大腸菌が検出されることも随分昔から聞く。河童橋のたもとの河原で水遊びに興じる観光客はそれを知ってのことだろうか。もっとも近年は山小屋のトイレ事情も様変わりし、バイオトイレなどの導入によりさすがに公然と垂れ流しはしていないはずだ。ただ、こういったトイレの改修は集客力の大きな経営的にも余力のある山小屋にとどまるのは致し方ない。
改めて菊池俊朗著「山の社会学」(文春文庫)という本を読み直した。20年近く前に出たものだが、序文で「山や登山の変貌、変容を眺め直してみると、そこには、戦後この方の日本社会の歩み、矛盾、日本人の生き方が、濃縮した形で映し出されているように思える。登山は、日本人のいい意味でも、悪い意味でもサンプルなのかもしれない」と登山の在り方を問うている。

オーバーユースによる表土の流出や植生 の変化も目に余る

登山は日本人のいい意味でも、悪い意味でもサン プルなのかもしれない
