コラム・エッセイ
祖母~傾山縦走記⑬ 《どSではない?》
おじさんも頑張る!~山の話あれこれ~ 吉安輝修山歩きの楽しみ方はいろいろある。息を切らして登りついた山頂で味わう達成感であったり、高いところから雄大な景観を眺めるのも良い。山に咲く花に会いに行くという人もいる。同じ目標を持つ人と一緒に歩けば得るものは倍増する。それに心地よい疲労感も何だか体に良いことをしたような気にもなる。
ところが濃いガスに包まれて雄大な景色どころか視界はわずか数メートル。前評判では落ちれば確実に事故につながる険路といわれるが見えないので緊張感も恐怖心もない。気を取り直してこの状況は霧に包まれた幽玄の世界に身を置いているんだと思いたいが、降り続く雨で濡れた急な斜面や根っこは滑りやすく泥濘と化した足元は気をそらせば泥まみれだ。さらに嫌になるほどアップダウンが連続する。時間に余裕があれば地形図を片手にそれを確かめながら歩くというのも楽しみの一つかもしれないが先を急げばその余裕がない。
汗と雨が額を伝わり目がしみる。首にかけたタオルで時折拭いていたがそれも飽和してとうとう絞るほどになった。全身ずぶ濡れになり悲壮感ただよう姿は誰の目にも山歩きを楽しんでいるようには見えないだろう。いったい何が楽しみでこんなことをしているのだろうかと呆れられるかもしれない。
しかし、自分流の山歩きの楽しみ?方には流儀がある。自分の置かれた状況と実力とのやり取りを考えて最大限とはいわないまでも挑戦することだ。格好よく言えばこの先の地形や天候のこと、背中に背負っている装備のことや体力などを「総合判断」して“行ける”と踏んだから歩いているのだ。この判断というか決断が楽しいのだ。これを他人に命令されれば生来のあまのじゃくなので「なんと無理をさせる…」と文句の一つも言いたくなる。でも自分で判断したのだから誰にも文句は言えない。
逆に言えばそれが正解だったのか常に検証しながら歩いていることになる。体力は19や20歳のころに比べて無理や無茶はきかなくなったが余力の判断はできる。多少は地図読みもできるのでその先の様子と残った体力との駆け引きだ。引き返すタイミングやエスケープルート(逃げ道)も歩きながら考えている。計画通りの時間で歩いているかどうかも重要で、極端に遅れる場合は判断ミスということで潔く中断するのも信条の一つだ。さらには目的地に着いたら真っ先に何をするかも考えながら歩く。だから案外とあれこれ頭の中で忙しく考えながら歩いていることになる。
何よりも計画そのものがタイトというか余裕を持たせない。自分のギリギリを試すような歩き方がたまらないのだ。もし他人と来ていたら早々引き返す選択をするかもしれない。人の実力なんて分からないし、この快感を押し付けようとも思わない。自分は「どM」かも知らないが「どS」ではない。

濃いガスに包まれて視界はわずか数メートル

雨で濡れた急な斜面や根っこは滑りやすい
