コラム・エッセイ
知床に思う②
おじさんも頑張る!~山の話あれこれ~ 吉安輝修2005年に知床が自然遺産に登録されると一気に認知度が高まり、すさまじい勢いで知床観光ブームが沸き起ったという。もちろんそれ以前も冬は流氷、夏にはウトロや知床五湖、カムイワッカの滝など観光スポットもあり、訪れる観光客も少なくはなかったと思うが、自然遺産効果で観光業は飛躍的に発展というか桁外れに成長したという。
ホテルなど宿泊施設や観光名所の整備も一気に進み自然遺産ブーム様々だったとのこと。しかし所詮はブーム。数年前まで毎年のように知床の山歩きで訪れていた斜里の定宿で主人が言うには、連日満室で予約を断っていたのは遠い過去の話で、いまでは平日に全く予約がない日もあるという。
鉄道やバスも減便続きでこの先どうなるのだろうかと…。お客に愚痴りたくなるのもうなづける。それに追い打ちをかけたコロナ禍での人の移動制限は更に厳しくなっているはずだ。
しかし、知床を観光云々で語るのは元住民としては少々寂しいものがある。そもそも北海道は明治以降の開拓事業から始まる歴史の新しい土地柄だが、後発組の開拓は厳しい自然環境下と格段に条件不利地でもあり、その辛酸をなめる過酷な作業の話はとても現代人が理解できるものではなく、人間の生に対する執念の歴史とも受け取った。
知床の100平方メートル運動の舞台は高度経済成長の円熟期、列島改造論で浮つく世情と価値観の多様化や変遷に翻弄されてきた開拓地の一つだ。人が地にかじりついて暮らすことも、投機のための開発されることも、どちらも人が生きるための手段ではあるが…。
話は後先になったが、毎年、山の雪質の落ち着く3月に知床半島の分水嶺を歩いて縦断しようと10年近く知床に通っている。地元に暮らしていれば天気が安定するのを見極めてサッと出かけることも可能かもしれないが、何せ山口県からとなると飛行機を乗り継いでもベースとなる斜里町までは一日仕事となる。翌早朝より動きだし山中での行動を4日とし、予備日と帰りの移動日も含めると1週間は必要となる。
さほど社会が必要とする人間ではないことは自認しているが、それでも数カ月前から日程調整をするので当日の天候など博打だ。運よく好天続きで距離を稼げる年もあれば猛吹雪の中、大きくしなるテントの中で数日耐えて荒天の隙間に稜線まで上がってすぐに引き返すだけのこともあったし、計画の変更また変更で山中を数日さまよっただけの年もあった。
前回書きかけたが、根北峠からカシュニの滝の源流の山でもある知床岳までの85キロを順不同ではあってもつなげてきた。そんな時のコロナ騒動だ。半年もすれば収束するだろうと高をくくっていたがところがどっこいだ。このブランクは歳との駆け引きでもあり年々いや日々落ちる体力が恨めしくなる。
この度の痛ましい知床遊覧船の事故はしばらく遠ざかっていた知床でのことを思い出した。「知床を思う」のではなく「知床に思う」きっかけともなった。
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