コラム・エッセイ
号外 突然の訃報 《正さんが亡くなった》
おじさんも頑張る!~山の話あれこれ~ 吉安輝修本当に突然だった。つい数日前の朝ポケットの携帯が鳴った。県議選の投票日まで残すところ数日となり選挙関連の電話かな?と思ってとった。ところが発信者の名前を見ると沖縄の友人の奥方からだ。昨年の暮れ以来で珍しい。話す前から相手が分かっているので「お久しぶり〜」とのんきに第一声を発したが、電話の向こうからは嗚咽が漏れる。いったい何?と思ったがしぼり出すような声で「正(まさ)さんが亡くなった…」とすすり泣きながらの報告だ。 「ええーっ!」と返したが、次の言葉が見つからない。
この「正さん」こそ、もう20年以上前から家族ぐるみのお付き合いをしている大切な友人宮城正夫さんだ。彼は沖縄の宜野湾(ぎのわん)市在住でかつては“ぎのわん山岳会”を主宰していて全国の山に仲間とともに遠征し、リーダーとして文科省の登山研修所主催の研修会などにも積極的に参加していた。その泊まり込みの研修で彼と偶然同室だったことが出会ったのがきっかけだ。その後も何度か出会う機会があって、年賀状でお互いの近況を報告し合っていた。とは言え当時は沖縄なんて遠い異国の地みたいな感覚で、どうやって行ったらよいのか考えたこともなかったし生涯行くことなんてないと思っていた。
ところが、娘が沖縄の学校に行くということになった。女房と一緒に部屋探しで行った時に宮城さんからの年賀状に書いてある電話番号をメモしていた。数多い年賀状のお付き合いの中だ。いきなりの電話に「どなたか記憶にないです…」と言われてもしかたがないのだが、ダメ元で恐る恐るかけてみた。ところが二つ返事で「もちろん覚えているし今どこ?すぐに来て…」と盛り上がり、その日は初のオリオンビールと夕食までご馳走になってしまった。
そんな出会いから始まり、きょうまで宮城夫婦とは数えきれないほどの多くの思い出がある。もちろん沖縄での親代わりとして何かにつけて娘の面倒を見てもらったことは感謝しきれないし、毎年のようにNAHAマラソンに誘われ、ずうずうしくご自宅を常宿にして毎夜の宴会が当たり前となっていた。山口にも何度か足を運んでもらって我が家にも泊まってもらったが、沖縄で受けた歓待の何分の一しか返せなかったことが悔やまれる。
今度は一緒に屋久島に行こう。阿蘇や久住にも行こうと旅の計画を一つずつ実現させ、いつかは山陰をのんびりと案内できたらいいなと女房と話していた矢先でもあった。奥方は女房と同い年ということもあり、酒で盛り上がっている横では女同士で案外と深い話もしていたようだ。
そんなこんなで沖縄がずいぶんと身近になり、我が家の家族はもちろん親類もご縁があって何度も沖縄の夜の街でお世話になったようだし、その職場の関係者家族も巻き込んで大勢で厄介になることも多かった。考えてみればお世話になるばかりというよりは迷惑をかけっぱなしだった。

宮城夫婦とは数えきれない思い出がある=あちこち一緒に旅をした

よく一緒に飲んだ=昨年の暮れに会ったばかりだった
