コラム・エッセイ
祖母〜傾山縦走記⑩ 《“自己中”の世界に浸る》
おじさんも頑張る!~山の話あれこれ~ 吉安輝修標高が900メートルあたりからガスがかかりはじめた。千メートルを越えると視界は前後数十メートル程となり、高度を上げるとさらに濃密となる。たっぷりの水分を含んだ湿度100%の空気は立っている樹木をまるで降雨の後のように枝葉や幹を濡らして光っている。水滴が乗って重そうに垂れる笹や低灌木の葉が腰から下をなでるので、いくらもしないうちにズボンは湿って重くなる。すでに上半身は絞るほどに大汗をかいているので全身が濡れ鼠状態だ。しかも風が全くないので不快指数は最大値に近い。
登り始めにロスをした2時間をいくら頑張ってもとても取り戻すことはできないのはわかっているが、日没までには9合目の避難小屋に着くという目標がある。途中で立ったまま何度か水分補給をしたが腰を下ろしての大休止など選択肢にはなく、多少のオーバーペースは否めないがそれでも息を切らしながら歩き続ける。
自分の行動をストイックだと手前味噌的にいうのもはばかりものだが、苦しい時にはもう一人の自分からの甘い誘惑も多い。それに抗い自問自答しながら歩くのも自分流の山歩きの醍醐味だ。〜この時間では日没後の行動になるし険しい岩稜もあるから引き返したら…。体力の温存をしないと核心で危ないからちゃんと休憩をしたら…。視界も悪いし歩いても楽しくないから無理をしないでも…。誰も見てないんだから下りても体裁を気にしなくていいし…。引き返す勇気も立派な登山技術の一つだから…。などなど頭をよぎる。自分的にはストイックと“どM”は同義語でこれらの惑わしを否定し、より過酷な状況に追い込むことを快感とする。
きょうは登り始めてから誰にも出会わない。無風となれば聞こえるのは自分の息使いと背中のザックが擦れる音。登山靴が地を踏む音だけだ。ましてやますます視界は悪くなる一方で、常に自分の周り10メートルがかろうじて見える狭い世界だ。その先の状況などそこにたどり着くまで全く分からない。ふっと現実離れした別の世界に迷い込んでいるかのような幻想的な錯覚を覚え、俗世から隔絶され人間臭さを微塵も感じさせない“自己中”の世界にどっぷりと浸る至福のナルシス感覚に酔っていることに気付く。この感覚こそ独り歩きから抜け出せないもう一つの中毒症状でもある。
突然だった。岩を回り込んだ先に一人の若い登山者がかなりくたびれた様子で腰を下ろしていた。自分の世界に陶酔していたが一瞬にして現実の世界だ。登山口に他の車は停まっていなかったしこの障子岩尾根にとり付いているのは自分だけだと思い込んでいた。それにしてもこの時間で追い抜かれるということはどんな計画だろう。後で猛迫してくるのかもしれないが…。
「標高1,000メートルを越えると視界は前後数100メートル程となった」
「笹や低灌木の葉が腰から下をなでるのでいくらもしないうちにズボンは湿って重くなる」
