コラム・エッセイ
「年寄りの責任か…」
おじさんも頑張る!~山の話あれこれ~ 吉安輝修つい先日、今年も“舌”刈りを目的に牛がやってきた。初めてやってきたのは10年以上も前のことで、畜産も酪農も未経験なのでどう牛達と接していいのかわからぬままの「おっかなびっくり」状態だったことを思い出す。
牛達にとっても初めての地と見知らぬ暫時の飼い主にしばらくは落ち着かない様子が見られる。それに牛にも性格があるようで遠くから走って近寄り頭を撫でさせてくれる個体もいたし、近づくと離れていって手が届く距離以下は近づかないのもいた。それでも朝夕毎日接していれば警戒心も無くなり、お互いの信頼感というか居て当たり前の空気のような存在になる。
何より1日に数十キログラム以上も草を食べてくれるお陰で草刈りの手間は大いに省け、牛達には申し訳ないが電気もガソリンも不要で水だけで動いてくれる全自動草刈りロボットのようなものだ。
とはいえ、たいていの草や木の葉は食べてくれるのだが、好き嫌いというより本能的に避けているのだろうが毒があるといわれるワラビや馬酔木、シキミ(ハナシバ)などは見向きもしない。それに野バラやタラの木などトゲのあるものはさすがに口の中が痛いのだろう近寄らない。
結局はそれらが群落となり生い茂り数年油断すると牛も人も近づけないトゲだらけの大藪と化す。シーズン終わりにそれらを刈り倒すのが仕事だが、かつては全面を何日もかけて大汗をかきながら刈っていたことを思えば遊んでいるようなものだ。
牛達のこの“舌”刈りのおかげで裏山は年々きれいになっていくのが何とも気持ちがいい。子供の頃に当たり前のように見ていたふるさとの原風景に少しだけ近づいてきているような気がする。
かつてはおよそ平地は農耕地であり斜面も果樹なり刈場などとして有効活用されていたのを思い出す。今でいうところの「里山」の風景だが、今のご時世は昔ながらの田舎で自給的な生活をするのは余程の信念の持ち主か生活に余力のある暇人でなければ難しい。
それでも田舎に居を構え住み続けるということは、家の庭先と菜園だけのお守をしていればいいというものではないような気がしてきた。年々増えていく耕作放棄地や、竹が繁茂して竹林が竹藪と化し、かつては財産と言われた山林も表土は流出して足を踏み入れればガラガラと崩れる始末で、森林が環境保全に役立っているなどとはとても言えない現実を、これも時代だと見て見ぬふりをしていていいのだろうかと思うようになった。
季節限定の牛飼いだが、10年続けてみて牛達の力で「里山」の風景が少しでも取り戻せる手ごたえを感じたし、続けていけば農地の保全にも役立つことを確信した。若い世代は地域での行事続きで忙しく、ノスタルジックに里山の原風景云々を語る暇はない。
でも僅かでも過去を知る者としては知らぬ顔はできない。ここは年寄りの責任として何とかしたいものだ。牛達も助けてくれる。
「今年も牛がやってきた」

「朝夕毎日接していればお互い空気のような存在になる」

「里山復活の切り札になるか…」
