コラム・エッセイ
「謹賀新年2024」
おじさんも頑張る!~山の話あれこれ~ 吉安輝修少々時間が経ってしまったが「皆さま新年あけましておめでとうございます」というのが年頭の慣例的な挨拶だ。ところが元日の夕方に石川県能登地方で起きた大地震のニュースで正月気分も一瞬で吹き飛んでしまった。呑気に「おめでとう」を言っては申し訳ない気がする。
日に日に増えていく犠牲者の数や倒壊、焼失した家屋の数などを報道で聞くにつけ、その甚大さに驚くばかりだ。
ましてや日頃離れて暮らす家族が久々に帰省し和やかに一家団欒の時を過ごしている最中のことで、我が身に置き換えて思えば何と神仏も無慈悲なことを…と思ってしまう。被災者数でいえば阪神淡路大震災や東日本大震災のほうが多いのだろうが、その多寡で語れるものではない。
大雨等による災害も年々激甚化し山一つ越えた見慣れた場所で起きている。もはや他人事ではなくなってきた。さらに昨今の猛暑、酷暑も災害級となると昔より確実に危うく住みにくい世になっている。
そのうえ正月だろうが盆だろうがお構いなしに何の予兆も無く突然に地震が起こるとなればもはや正常な精神では暮らしていけないところだが、人には良くも悪くも「楽観性バイアス」がはたらき「自分は大丈夫だ」「ここは大丈夫だ」と信じてしまうらしい。
新年早々にあまり縁起の良い書き出しが出来ず申し訳ないが、あらためて防災を考える契機になった方も少なからずいらっしゃると思う。やはり備えの重要性を痛感されたのではなかろうか。食べるものや水がない。電気もない。暖もとれないし電話やテレビ、インターネットが使えず情報の受発信ができない、よそに行こうにも道路が通れないし救急車さえ来ない。
ひとたび大規模災害が起こるとこんな状況が“日常”になるのなら、自分の家でできること、地域でできることを本気で考える時かもしれない。もちろん「物」を備えるのも大事だが地域の中で立場を越えた助け合いや情報共有の仕組みも考えるチャンスかもしれない。
前回の記事で地元の防災部長を後進(若い人)に譲ると決意表明し、その気で防災の定例会に臨んだがあっけなく否決された。しかたなく?暫時の続投はするが、するからには今一度体制を整え、地域が一つとなって災害や困難に対応できる態勢にしなければとも思う。
とはいっても、急激に進行する過疎高齢化は年々平均年齢が上がるだけに留まらず人材の確保や士気を維持していくのも困難となるのは目に見えている。
何かをやるには何かを捨てる勇気と決断が必要で、大鉈を振るう時が既に来ていると思う。でも誰も怖くて口には出さないし集会ではきっと明るい未来がくるかの発言も出る。
ここは嫌われ役を買って出て「あいつにやらしたらメチャクチャになるから辞めてもらうしかない…」の路線でいってみようか。
