コラム・エッセイ
祖母~傾山縦走記⑦《長い言い訳》
おじさんも頑張る!~山の話あれこれ~ 吉安輝修情けないことにスゴロクで言うところの「振り出しに戻る」になってしまった。猛烈なブッシュ(やぶ)に行く手を阻まれ、回れ右をするのでさえ相当なエネルギーを消耗した。それも2回だ。放り出したザックを座布団替わりにしてしばしの休憩だ。
こうならないための地形図とコンパスだが、ポケットに入れたまま出そうともせずに無駄な労力と時間を費やしたことを後悔する。行動食に用意している日頃はまず食べないどら焼きを水で流し込みながら、あらためて現在地とこれから進むルートを確認した。もう少し下から右に入るルートを見落としたようだ。
余談になるが、地図読みの基本というか大原則は現在地の確認だ。ちょっとややこしい言い回しになるかもしれないが、迷ってしまってからここはどこだ?では手遅れで、そうなる前に自分の周りの地形や地物を観察して地形図と照らし合わせてみる。合致していれば地形図上でほぼピンポイントでマークできる。
そしてこれから進む場所を地形図から想像してみる。ルートの方角はもちろんだが左右やその先にある地形が頭の中で描ける。例えば左側は急斜面で右側は支尾根が分かれているので見えるはずだ。20mほどのピークを2つ越えると、しばらくは傾斜の緩い尾根道になるはずだ。という風にイマジネーションの世界にどっぷりとつかる。そしてその場所にいってみてその通りになっていれば正しいルート上にいることになる。
恰好良く言えば推理と証拠固めだ。その証拠から次はきっとこんな地形が現れるだろうという予言をし、進みながら現れる地形や状況を観察しながら証拠を集める。だから自分は地形図上のこの場所にいる。という確証を得ることができるのだ。現地の観察と推理。そして証拠固めと次の予言と推理という連続作業こそが地図読みだ。
だから完全に迷ってしまってから地図を出しても、答えはすぐに見つからない。もし目隠しをされて深い谷底に連れて行かれ、地形図を渡されてここはどこか当ててみろ、と言われても余程特徴的な地形でもない限りは難しい。道のない谷を歩く時は左右から入ってくる小さな谷地形を数え、次に現れるであろう谷を予言して、確認しながらでないとまず現在地は分からない。
実はさっきから長い言い訳をしている。確かに正しい登山道を踏み外して違うところには行った。しかしおかしいな?と気付いて引き返したし、地形図を見たら確かにルートから外れていたことに気付いた。無駄な労力や時間は費やしたが「迷ったわけではない」。ルートを外したのは認めるが現在地も分かる。進むべき方角やその先の地形だって推理できる。だから自分は迷っていない。
「なんとお前は往生際の悪いやつじゃのう。自分は迷いましたと素直に白状したらどうか」「いいや。迷ってはいない。ちょっと油断しただけだ」。

猛烈なブッシュ(やぶ)に行く手を阻まれて相当なエネルギーを消耗した」

「地図読みの大原則は現在地の確認だ」
