コラム「一言進言」
被ばく者の声は届くか
~子どもたちに伝えよう~
■ 私の祖父は広島での被ばく者だった。幼いころ亡くなったので記憶の中ではかなり少なく、あいまいだが、4、5歳ごろ祖父の家を訪ねたらバラックつくりの家だった。窓が板で作られ、つっかい棒で開け閉めしていたのだけはなぜか覚えている。しばらくして市営住宅に移れた。家庭の事情で1カ月、祖父の家に預けられていたことがある。覚えているのは市営住宅の下にやってくる紙芝居のおじさんだ。
■ 戦後20年近く経たころ、私は学生として広島に住んだが、映画「仁義なき戦い」の舞台になった基町あたりにバラック建ての集落があった。親戚の叔母はその基町の市営住宅の1階で薬局を営んでいた。当時、なぜか夏になると火災が起こり、バラック集落は瞬く間に高層の市営住宅地に変貌していった。今思うと不思議なのは、祖父はもちろん祖母も、親戚の叔母さんもみんな被ばく者だったはずなのに、被ばくのそのすさまじい経験を語る大人がいなかった。親も周囲の人も被ばく体験を語る人がいなかった。
■ 学生時代たまたま友人に被ばく2世がいた。世の中に興味を持ち始めたころだった。初めて知ったその不条理さに怒りが収まらなかった。当時被ばく2世というだけで銀行や電力会社などへの就職がかなわなかった。なぜ被ばく者の子どもというだけで就職できないのか。岐陽中生時代、同級生が白血病で亡くなった。棺を抱きそのお母さんが「私が殺した!」と泣き崩れていた光景が忘れられない。学生になり被ばく2世の実態を知ってその意味が分かった。母親が被ばく者だったのだ。
■ なぜ被ばく者だった祖父や祖母が悲惨な被ばくの話をしなかったか、2世たちの苦悩を知って思い知らされた。戦後長く被ばく者たちは黙して一切語らなかった。1956年、戦後11年も経て初めて被団協が設立された。マスメディアが取り上げ始めたのもそのころからだ。戦前、戦争を鼓舞して戦火に逃げ惑う人々を創り出したマスメディアは、なぜか被ばく者の実態を知らしめることをしばらくしなかった。
■ 「原爆で亡くなった死者に対する償いは、日本政府はまったくしていないという事実をお知りいただきたい」と、オスロで開かれたノーベル平和賞の授賞式で代表団の田中さんは世界に向けて発信した。核の怖さを知ってほしい、その思いは伝わったのか。世界中で狂気じみた指導者が核のボタンを持つ時代だ。日本でも「核を持つべき」と公言する政治家まで現れた。ここ周南でも子どもたちに伝えていこう「核の怖さを!」
(中島 進)


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