コラム・エッセイ
№94 私の珍名さん物語1・我喜屋も小比類巻も倍賞も友歳も稲尾も二出川も釜萢も幣原も…そして神谷宗幣もロマンである
独善・独言苗字に興味をもつ。殊に珍しい苗字(以下珍名と表記)にこだわりのロマンをもつ。3稿にわたり私の昔話しにおつきあいいただきたい。一部敬称を略す。
㊀高校野球への特異な視点である。甲子園球場のスコアボードを映しながらアナウンサーが先発メンバーを読み上げる。『三番は○○と書いて○○○と言います』と珍名を説明する。私のロマンはここにある。
興南高校の我喜屋㋑(がきや)外野手は卒業後大昭和製紙ほかで野球に関わった。室蘭本線で白老駅を通りすぎるときには、彼は暑い沖縄からこの寒い白老町まできて野球をしに来たのかと50年前を偲んだ。
三沢高校が準優勝したときの捕手は小比類巻㋺(こひるいまき)という。アイヌ語で「窪地」のことらしいがまったく意味不明である。小比類巻かほるという歌手がいるというがいたようないなかったような…。
この面での一番は昭和37年の春夏連続出場した日大三高のファースト倍賞明㋩である。とにかく白いユニフォーム姿がスマートであってあこがれた。『彼のお姉さんはSKDの倍賞千恵子さんです』という紹介を聞いたような聞かなかったような…。
倍賞家の先祖は秋田の佐竹氏に仕えた際、特別な武功をたてて2倍の恩賞を受けたことから「倍賞」姓を名乗るようになったというロマンは、倍賞千恵子の「私の履歴書(日経新聞)」で知った。
㊁高校野球の最初の意識は昭和33年柳井高校の優勝時。優勝戦は盆のさなかで、集まった叔父たちとラジオ放送に歓声をあげた。懐かしい。
そのときのエースは友歳兄㋥である。決勝戦で徳島商高の三塁走者が友歳投手がメガネを拭いているスキをねらってホームへ走ったがアウトになった。解説者は卑怯だと厳しく非難していたというその後一度も目にしたことのないような場面を、70年後の今もショウモナク覚えている。あの選手はその後の人生をどう生きただろうか。
㊂その昭和33年の秋には日本シリーズで西鉄が3連敗から4連勝した。稲尾㋭投手に興奮しまくった。その翌年に上映された映画「稲尾和久物語」を友達と二人30分バスに乗って観に行った。母親役が浪花千栄子だったこと以外は記憶がないが、それからは度がはずれた野球好き、西鉄ライオンズ好きになった。
もうひとつこの映画で最も鮮烈な記憶…小渕が打った三塁線のゴロを二出川㋬審判がフェアーと判定した場面が映し出された。巨人から西鉄に流れが変わったプレーである。テレビのない時代であったのでその映像は初めて目にした。新人長嶋が大きなジェスチャーで猛抗議していた。二出川は「俺がルールブックだ」と云い放ったことで有名な審判であるが、彼の娘があの「ゼロの焦点」の「高千穂ひづる」であったことは知っていたような知らなかったような。
㊃先の参議院選挙で釜萢㋣(かまやち)敏氏が当選された。あの「ムッシュかまやつ」と同根であろう。『下駄を鳴らして奴がくる』や『今夜の夜汽車で旅立つ俺だよ』は私の青春歌であり、76歳の今も昔とは別な思いで切なく歌い続けている。しかし、そんなセンチメンタルな理由で一票を投じる人はまずいまいから、釜萢などという選挙に不向きな苗字を恨んでいたのではなかろうか。
㊄そもそも政治家には珍名はそぐわないのか、歴代首相で読めない苗字は幣原㋠(しではら)喜重郎ぐらいではなかろうか。「幣」とは本来「神道で神事に供えるもの」という意味らしい。
参政党神谷宗幣代表は名前のなかに「神・宗教・幣」と三つもの“神がかり”が入っている。フツーではないと思われないか。…次稿に続く。

